Generated by All in One SEO v5.0.1.1, this is an llms.txt file, used by LLMs to index the site. # 荻村伊智朗-Ichiro Ogimura-Online Museum ## Sitemaps - [XML Sitemap](https://ogi-museum.com/sitemap.xml): Contains all public & indexable URLs for this website. ## 投稿 - [1963年 世界卓球選手権 プラハ大会 荻村伊智朗 試合記録](https://ogi-museum.com/1963-praha) - 1963年世界選手権 プラハ大会 男子団体 決勝 中国 5-1 日本 荘則棟 20-22、21-13、13-21 木村興治○ ◯張燮林 21-8、21-9 三木圭一 ◯徐寅生 21-17、21-11 荻村伊智朗 ◯張燮林 21-5、21-11 木村興治 - [日中友好卓球研究会 通信会員募集](https://ogi-museum.com/1984-china) - 【編集部注】 本資料は、1985年から2年間にわたり東京・三鷹市の国際卓球会館で開催された「日中友好卓球研究会 - [荻村伊智朗が見た 鄧亜萍 『私のスタンディング・オベーション』より](https://ogi-museum.com/standingovation‐deng-yaping) - 「短身、負けんき、きらめく才気」ときたら、高校生で世界の松崎を破った関正子が思い起こされる。関は結局、日本、アジア、世界のタイトルを獲得するまでに成長したが、鄧亜萍も関の名声に並ぶ勢いだ。 鄧は動きがいい。動きのよいプレーヤーはスタートがいい。スタートのよいプレーヤーは予測がいい。 - [荻村伊智朗が見た リ・ブンヒ 『私のスタンディング・オベーション』より](https://ogi-museum.com/standingovation‐li-bun-hui) - 「朝鮮の選手は実によく練習をします」と私に語ってくれたのは、この2年間で80ヶ国を訪問した際にある国で出会った中国人コーチだった。朝鮮卓球の建て直しに中国が協力した話は識る人ぞ識る、といったところだが、1年以上の長きにわたってピョンヤンに滞在した中国コーチも多くを数えるようになった。 - [荻村伊智朗が見た アペルグレン 『私のスタンディング・オベーション』より](https://ogi-museum.com/standingovation‐mikael-appelgren) - スウェーデンにアペルグレンがよみがえって、中国の前進もますます厳しいものになってきた。昨年末から今年二月迄のリンドの連戦連勝、ア欧でのワルドナーの優勝、全英でのパーソンの優勝、そして欧州チャンピオンに返り咲いたアペルグレン、というすごさだ。 欧州選手権ではイングランドが台風の目だった。 - [1967年、ストックホルムでの日本・スウェーデン選手交流](https://ogi-museum.com/1967‐europe) - 1967年、ストックホルムで開催される世界卓球選手権を前に、日本チームはソ連・ヨーロッパへ強化遠征を行った。 写真は遠征中のストックホルムで撮影されたもので、スウェーデン選手と日本選手の交流の様子が記録されている。 この時、日本チームを迎えたアルセアとヨハンソンは、それ以前に日本を訪れ - [荻村伊智朗が見た 喬紅 『私のスタンディング・オベーション』より](https://ogi-museum.com/standingovation‐qiao-hong) - ジャパンオープンにも来日の喬紅は、中国の生んだシェークの選手として完成度の高いプレーヤーだ。 特にいままで中国のシェーク選手は完成度が低いとみられていたバック系の技で前進みられる。 また、フォアハンドの回転量は抜群。サラエボで大関が押さえ切れなかった - [荻村伊智朗が見た 玄静和 『私のスタンディング・オベーション』より](https://ogi-museum.com/standingovation‐hyun-jung-hwa) - 玄静和の力量が試されるのは'90年代である。その意味では、梁英子がいいときに引退してくれた。 '90年代にはアジア競技大会が北京であり、'92年のバルセロナオリンピック迄は玄静和に韓国スポーツ界の熱いまなざしが注がれる。 韓国のペンホルダー卓球の中で、表ソフト型は特異な発展を遂げた。 - [荻村伊智朗が見た 江加良 『私のスタンディング・オベーション』より](https://ogi-museum.com/standingovation‐jiang-jialiang) - 世界チャンピオンになったことのある人ならよくわかることだし、ならなかった人でもやっぱりよくわかることだと思うが、世界タイトルを二年後に守ることはたいへんなことだ。 たまたま私と田中利明君は二年後にそれぞれ再び世界チャンピオンになった。 - [1969年 ステラン・ベンクソンと荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/gallery-1960s-6) - 1969年冬、17歳だったステラン・ベンクソンは、日本・三鷹に4~5か月ほど滞在し、荻村伊智朗のもとでトレーニングに励んだ。 滞在中は荻村だけでなく、多くの日本選手やコーチたちと練習や交流を重ねながら日々研鑽を積んだ。 その約1年半後の1971年、名古屋で開催された世界卓球選手権で男子シングルスを制覇。 - [荻村伊智朗が見た ヤン‐オベ・ワルドナー 『私のスタンディング・オベーション』より](https://ogi-museum.com/standingovation‐waldner) - 編集部注: 『私のスタンディング・オベーション』は、1991年に日本卓球株式会社(ニッタク)より刊行された、荻 - [『世界の選手に見る卓球の戦術・技術』(増補改訂版)「戦術について」](https://ogi-museum.com/world‐player) - この本を読もうとするあなたが選手であれば、高い目標を持っている人に違いない。その目標の高さは、山の高さでいえば日本最高級の3000メートル級であろうか。それとも、世界最高級の8000メートル級であろうか。 戦術とは読んで字のごとく、戦(いくさ)の術である。スポーツでの戦とは、試合であろう。 - [1956年 世界卓球選手権 東京大会 男子団体・荻村伊智朗 試合記録](https://ogi-museum.com/1956-tokyo) - 1956年世界選手権 東京大会 試合記録 男子団体 優勝決定戦 日本 5-1 チェコ ○角田啓輔 21-11、21-19 ヴィナフスキー ○荻村伊智朗 26-28、21-19、21-13 アンドレアディス ○田中利明 21-12、21-13スティペック 角田啓輔 - [『創刊の趣旨』卓球ジャーナル1970年8月 創刊号「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1970-8) - 私達が愛好する卓球は、長い歴史と広大な競技人口をもつ素晴らしいスポーツです。 しかし、残念なことには、その素晴らしさは充分に人に知られていないし、認められてもいません。 そのためもっと素晴らしい競技者が世に出る可能性も抑えられています。もっと多くの人達に卓球の真価を味わっていただく機会も失われています。 - [1967年世界選手権ストックホルム大会](https://ogi-museum.com/gallery-late-1960s-2) - 1967年世界選手権 ストックホルム大会 ※上の写真は左から河野満氏、吉田南総監督、森沢幸子氏、笠井賢二氏、長 - [世界をつなぐ夢 ― 城島充氏による荻村伊智朗の記事](https://ogi-museum.com/pinpon) - 2026年5月15日、『ピンポンさん』の著者であるノンフィクション作家・城島充氏による荻村伊智朗の記事が産経新聞Webに掲載されました。 記事では、ドイツの起業家マックス・ファンラーク氏とフィリップ・エガースグリュース氏が、荻村伊智朗の生涯と理念に感銘を受けて取り組んだ「シャープマン」復刻プロジェクトを - [TBS系列「ザ・ビッグデー」撮影風景 国際卓球会館 24/05/1985](https://ogi-museum.com/international-table-tennis-stage) - 1985年5月24日、東京・三鷹市の国際卓球会館で行われたTBS系列「ザ・ビッグデー」の撮影風景。 写真には、荻村伊智朗のほか、1983年世界選手権に出場した織部幸治が卓球をする様子が写されている。 また、中国から来日していた岑淮光氏、楊瑞華氏の両コーチが指導にあたる姿も確認できる。 - [ハンス・アルセアと荻村伊智朗 Hans Alsér](https://ogi-museum.com/hans-alser) - スウェーデン卓球界を代表する名選手、ハンス・アルセア氏と荻村伊智朗。 (Hans Alsér/1967年・19 - [1954年 世界卓球選手権 ロンドン大会 男子団体・荻村伊智朗 試合記録](https://ogi-museum.com/1954-london-3) - 男子団体 決勝リーグ 第1戦 日本 5-2 イギリス(英国) ○富田芳雄 21-14、21-17 サイモンズ 田舛吉二 10-21、23-22、7-21 バーグマン○ ○荻村伊智朗 21-10、18-21、21-8 リーチ - [1955年 世界卓球選手権 ユトレヒト大会 男子団体・荻村伊智朗 試合記録](https://ogi-museum.com/1955‐utrecht) - 1955年世界選手権 ユトレヒト大会 男子団体 決勝 日本 5-4 チェコ ○田舛吉二 23-21、21-15 スティペック ○荻村伊智朗 21-18、21-18 ヴァーナ 田中利明 15-21、16-21 アンドレアディス○ - [1957年 世界卓球選手権 ストックホルム大会 男子団体 試合記録](https://ogi-museum.com/1957-stockholm) - 1957年世界選手権 ストックホルム大会 男子団体 決勝 日本 5-2 ハンガリー ○荻村伊智朗 21-17、22-20 シド 角田啓輔 14-21、16-21 ベルチック○ ○田中利明 21-19、22-20 ホルディー ○荻村伊智朗 21-14、21-11 ベルチック - [1959年 世界卓球選手権 ドルトムント大会 男子団体 決勝 試合記録](https://ogi-museum.com/1959-dortmund) - 1959年世界選手権 ドルトムント大会 男子団体 決勝 日本 5-1 ハンガリー ○村上輝夫 14-21、21-19、21-17 シド ○荻村伊智朗 21-18、17-21、21-13 ブボニー ○星野展弥 21-17、21-12 ベルチック - [1961年 世界卓球選手権 北京大会 男子団体 決勝 試合記録](https://ogi-museum.com/1961-beijing) - 1961年世界選手権 北京大会 男子団体 決勝 中国 5-3 日本 ◯荘則棟 21-14、24-22 星野展弥 徐寅生 21-17、17-21、17-21 木村興治◯ 容国団 19-21、19-21 荻村伊智朗◯ ◯徐寅生 17-21、21-14、21-18 星野展弥 ◯荘則棟 21-13、21-13 荻村伊智朗 - [『勝敗が念頭にあるようでは勝てない』荻村伊智朗語録 1956年4月](https://ogi-museum.com/quotations-1956) - 勝敗が念頭にある様では勝てない 勝敗が念頭にある様では勝てない。 勝敗が念頭を去った時、最善を尽せる。 最善を - [Marty Reisman(マーティ・ライズマン、マーティ・リーズマン)と荻村伊智朗 1992年](https://ogi-museum.com/marty-reisman) - マーティ・ライズマン(Marty Reisman)と荻村伊智朗 写真左はマーティ・ライズマン氏(マーティ・リー - [久里浜にて――1956年『プリンス』寄稿(世界選手権東京大会直前)](https://ogi-museum.com/1956‐prince) - 四十年来、日本の卓球人が待ちに待った世界選手権東京大会も旬日に追まり、総監督以下四十名の日本代表選手団の最終強化合宿が、ここ湘南の地久里浜で行われている。 暖い所で合宿とはシャレているね、などと云う人もあったが、朝十時から夜八時迄、三回の休みがあるとは云え、一日実働五時間以上つま先立ちで飛びるのだから、当りが悪くても、 - [立教卓球 我が心の人々 ‐荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1988-rikkyo) - 「立教の今泉という選手が、藤井を追いつめたそうだ」という噂が広がった。かの豪腕藤井則和選手がカットで凌いだ、というのである。高校生にとって卓球の神のような攻撃選手が、カットマンに対してカットで防戦に廻り、やっと凌いで勝った。このニュースは、後の私の選手生活に大いに影響した。 - [OGIMURA ACTIVITY REPORT 1991 Dec. No.12 南アフリカ](https://ogi-museum.com/activity-report-1991-dec-2) - 1月に南アのヨハネスブルグに行きました。 ITTFのハマランド会長代理(スエーデン)、セグン副会長(ナイジェリア)が同行しました。 1950年に国際卓球連盟に加盟した南ア卓球ボードは非人種主義を標榜する組織でした。1957年、ストックホルム世界選手権大会にボードが参加しました。田中利明君と私が決勝を争った大会です。 - [OGIMURA ACTIVITY REPORT 1991 Dec. No.12 1993年世界選手権について](https://ogi-museum.com/activity-report-1991-dec) - 第42回 世界卓球選手権 スエーデン国の西海岸、イェテボリ市のスカンジナビウム体育館を主会場(6台)とし、付帯施設のメッセ会場などを第2会場等に使い、1993年5月11日(火)から23日(日)までの13日間開催されることに決まりました。 - [徐寅生氏の自伝 1996年(Xu Yinsheng)](https://ogi-museum.com/xu-yinsheng) - 徐寅生氏から送られた自伝 徐寅生氏から時美夫人に送られた自伝。 「1996.3」という日付けとともに徐寅生氏の - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1991年世界選手権千葉大会](https://ogi-museum.com/gallery-1990s-1) - サマランチIOC会長(当時)と荻村伊智朗。 1991年世界選手権では史上初めて「ブルーの卓球台」と「オレンジ球」が採用された。 また史上初めて「統一コリアチーム」の参加が実現した。 - [Ichiro Ogimura Gallery 1950s-20 オギムライチロウ](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-20-2) - 母 美千枝と荻村伊智朗 母 美千枝と荻村伊智朗。 - [1964年 第7回アジア卓球選手権 日本は7種目で優勝](https://ogi-museum.com/1964-asia) - 1964年 第7回 アジア選手権 女子団体の優勝カップを手にする荻村伊智朗。2位は韓国、3位はタイ。 日本は全 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-11](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-11) - 1954年、世界選手権出発前の日本大学卓球部 激励会 中列左から3人目が荻村伊智朗。 前列一番左は日本大学の矢 - [指導にあたる荻村伊智朗 Ichiro Ogimura 1960年代 1960s-9](https://ogi-museum.com/gallery-1960s-9) - 大学生の指導にあたる荻村伊智朗 - [ITS三鷹卓球クラブでラリーを楽しむ荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/itsmitaka) - 東京三鷹市のITS三鷹卓球クラブ 創設に尽力した日本初の会員制卓球クラブ「ITS三鷹」でラリーを楽しむ荻村伊智 - [フェレンツ・シドと荻村伊智朗 Ferenc Sidó](https://ogi-museum.com/ferenc-sido) - シド(Ferenc Sidó)氏と談笑する荻村伊智朗。 シド氏は1947年から1961年にかけて世界選手権で9 - [1963年世界選手権プラハ大会 Word Championships Prague](https://ogi-museum.com/1963-prague) - 1963年世界卓球選手権 プラハ大会 1963年 世界選手権プラハ大会に出場する荻村伊智朗。 日本男子チームは - [世界選手権に12年連続出場 日本人最多の12タイトル(21~33歳)](https://ogi-museum.com/worldchampion) - 1954年(昭和29年)22歳 第21回世界選手権ロンドン大会に初出場 男子団体:優勝(荻村・富田・田舛・川井) 男子シングルス:優勝(決勝:フリスベルグ) 男子ダブルス:3位(パートナー:富田) 5月、フランスオープン(パリ)、男子シングルス優勝(決勝:シド)、男子ダブルス(富田)優勝 - [Ichiro Ogimura Gallery 1980年代後半 Late 1980s-3 Sven-Olof Hammarlund](https://ogi-museum.com/gallery-late-1980s-3-2) - ハンマルルンド氏(Sven-Olof Hammarlund)と スウェーデンのハンマルルンド氏(Sven-Ol - [朝日新聞1954年4月13日「世界卓球団体戦に優勝して」荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1954‐04‐13‐asahi) - 男子団体競技の組み合わせが分った時、われわれは次のような予想をした。シェーク・ハンドにはアタック型の中欧型とディフェンス型の英仏型がありわれわれのRグループにおける強敵ハンガリー、ルーマニアは、いずれも中欧型のシェーク・ハンドである。 われわれのペン・ホルダーは守備に重点を置いては体力的にもかなわない - [JTTAニュース 1990年6月発行 日本卓球協会](https://ogi-museum.com/jtta-news‐1990-6) - 1990年5月〜6月にかけて行われた日本卓球協会の理事会・常務理事会では、国際交流(特に日中友好都市卓球カーニバルやアジア大会)、選手強化計画、資金・補助金制度、そして市民スポーツ振興など多岐にわたる議題が討議された。 荻村伊智朗国際卓球連盟会長のもと、日中交流強化・行政支援の拡充・若手育成が重点テーマとなった。 - [『持つべきものは友』OGIMURA ACTIVITY REPORT1991年12月号より抜粋](https://ogi-museum.com/report-1991-12) - 「世の中は、棄てる神あれば拾う神あり」というが、持つべきものは友人である。卓球の世界選手権大会も、おかげさまで、いろいろな話題をもたらしながら進行している。 一昨年、ベルリンの壁が崩れた第一報を聞いたとき、日本卓球協会は常務理事会を開いている最中だった。このとき、国際委員の平島祥男氏が手を挙げ、「次は南北朝鮮だ」 - [OGIMURA ACTIVITY REPORT 1987 September 1987年9月 No.1](https://ogi-museum.com/report-1987-9) - 私が会長に選出されてから3か月が過ぎました。私の現在までの活動の要点報告をいたします。 私の大体の計画では最初の一年を意見の収集、発展計画のリストづくりと、それに対する優先順位の割り当てに費やす予定。これは、翌年開催される理事会で新しいプロジェクトが議決されることを目的とし、 - [OGIMURA ACTIVITY REPORT 1987 November 1987年11月 No.2](https://ogi-museum.com/ogimura-activity-report-1987-11) - ※編注:『OGIMURA ACTIVITY REPORT』は荻村伊智朗が国際卓球連盟会長時代(1987年~19 - [「学生スポーツ外史」大学時報1993年1月号より](https://ogi-museum.com/daigakujihou) - 「モンタギュー伯爵様ご招待状次の日曜日の午後、ピンポンをいたしませんか。そのあと、ダージリンの新茶をご用意いたしております」 二十世紀の初めごろ、英国の上流階級の流行は、お茶会の招待状に「ピンポンの会」と書くことだった。いまも、無数の招待状が残されている。モンタギュー家の息子アイボアがもの心ついたころからの四半世紀、 - [南アフリカ共和国 シェリル・ロバーツ選手](https://ogi-museum.com/1992) - シェリル・ロバーツ(南アフリカ) アパルトヘイト政策により国際大会に出場できない南アフリカ共和国のシェリル・ロ - [1965年頃 シェル・ヨハンソン、ハンス・アルセアと Kjell Johansson/Hans Alsér](https://ogi-museum.com/gallery-johansson) - 左から2人目は野村堯氏。3人目はシェル・ヨハンソン氏(Kjell Johansson/1967年・1969年・1973年、世界選手権男子ダブルスで3度の金メダルを獲得。ヨハンソン/アルセアペア)。 左から4人目は福島萬治氏。 - [「なぜ国際競争力向上委員会か」国際競争力向上委員会 ハンドブック」より抜粋 日本卓球協会](https://ogi-museum.com/nihonnosennin-6) - 日本卓球の競技力の向上は、世界のトップに立つための向上に他ならない。国内制覇の競技力向上と混同されることのないよう、組織の目的を明示することが当分の間は必要、という認識による命名。 小野誠治選手が日本人として最後の世界選手権大会の金メダルを獲得してから14年。今の高校生選手の実際の記憶に、そのときの感激はない。 - [国際卓球連盟会長時代(54歳-62歳)](https://ogi-museum.com/president-of-ittf) - 1987年(昭和62年)55歳 ニューデリーの総会で第3代ITTF(国際卓球連盟)会長に就任(~94年) IT - [-笹川杯地球ユース報告書-『日本の千人』より抜粋 1994年](https://ogi-museum.com/nihonnosennin-5) - 「スポーツマンは社会性がない」、とか、「政治音痴」とかいわれる。評論家、文化人、政治家などと面談する機会があると、一般的にそのように思われていることを感じることがある。 限られた報告書の字数の中で、数名の選手がそのことにふれ、また、自らが国際的な友情を育んだことにふれた。どんなに強くなっても、その感性を失わないで - [-打球点分析について-『日本の千人』より抜粋 1993年](https://ogi-museum.com/nihonnosennin-4) - 1 現行ルール下でのラリー数。 現行ルール下での次期第43回世界選手権大会では、サービス、レシーブ、第3球、第4球の段階でラリーが終わ る。 2 攻撃こそ、最大の防御。攻撃性を発揮する順序。 前述の順序で、高い攻撃性が、それぞれの打球に求められる。 3 攻撃性の中身。 高い攻撃性を発揮しやすくするためには、 - [日中友好卓球研究会『ニューズレター』より「私の中の中国卓球」1985年](https://ogi-museum.com/news-1985) - もしもっと卓球の弱いところへいくのならば、どのくらい気が楽なことだろう。成果は簡単に現れるだろう。しかし、日本はレベルの高い国である。小・中・大・社と、世界選手権代表を生み出すレールは一応完成している。実績もある。国中には数千というコーチが日夜熱心な指導をしている。 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-7](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-7) - 荻村伊智朗と田中利明氏(1955年世界選手権ユトレヒト大会、1957年世界選手権ストックホルム大会男子シングル - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1959年世界選手権ドルトムント大会](https://ogi-museum.com/gallery-late-1950s-3) - 1959年世界選手権 ドルトムント大会 日本は男子シングルスを除く6種目で優勝。 荻村は男子団体、男子ダブルス(ペア:村上輝夫)、混合ダブルス(ペア:江口冨士枝)の3冠を獲得。男子シングルスは銅メダル。 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1965年 埼玉県寄居町 全日本合宿](https://ogi-museum.com/gallery-1965) - 1965年に行われた全日本合宿。荻村伊智朗は強化責任者として選手を指導。 最高列左から横山あき子氏、長谷川信彦氏、木村興治氏、田中英也氏、野田良男氏。 中列左から山本伸子氏、荻荻村伊智朗、北村隆氏、田坂登紀夫氏、福島萬治氏、小渕雅弘氏、関正子氏。 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1965年頃 ビクトル・バルナと日本選手団 Viktor Barna](https://ogi-museum.com/gallery-1960s-8) - 卓球界で史上最も成功したといわれるビクトル・バルナ氏(世界選手権で22個の金メダルを獲得)と日本選手団。 前列右から長谷川信彦氏、深津尚子氏、磯村淳氏、山中教子氏、森沢幸子氏。後列一番右は木村興治氏。後列左から三木圭一氏、高橋浩氏、荻村伊智朗、ビクトル・バルナ氏。 - [『日本選手よ、勝ってくれ!』木村興治「卓球人」創刊号 特集「偲・荻村伊智朗」より](https://ogi-museum.com/takkyujin-kimura) - 「明日、6時半に起こしてくれ!」。1983年に私は国際卓球連盟(ITTF)理事になった。以来、荻村さんと少なくとも年一回のITTF理事会などの会議に一緒に参加している。夜起きOK、早起き苦手の荻村さんが、朝の時間を使い会議に備えるために起床を私に依頼するのである。私が、朝ドアをノックする。 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-8 1954年 世界卓球ロンドン](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-8) - 1954年 世界選手権ロンドン大会後 ※上の写真は日本代表選手団。前列右から田舛吉二氏、長谷川喜代太郎監督、後 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950s-20 1954年 オギムライチロウ](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-20) - 1954年 世界選手権ロンドン大会 1954年 世界選手権ロンドン大会の前後、日本代表選手団はインドを訪問。 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-19 オギムライチロウ](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-19) - 1958年-1959年頃 荻村伊智朗と時美夫人。1958年~1959年頃撮影。 東京都三鷹市の自宅にて。 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1957年世界選手権ストックホルム大会](https://ogi-museum.com/gallery‐1957-stockholm) - 1957年世界選手権 ストックホルム大会 1957年世界選手権 ストックホルム大会にて。 1枚目の写真中央は角 - [『命をかけた卓球改革』田舛彦介「卓球人」創刊号 特集「偲・荻村伊智朗」より](https://ogi-museum.com/takkyujin-tamasu) - 命をかけた卓球改革 本年7月、久しぶりでUSオープン卓球大会を視察した。アメリカの新会長ピットマンさんは36才の美人女性。「私はオギムラさんが国際卓連会長の時に彼と一緒に卓球開拓の仕事をしたかった」と語った。 1953年のアジア選手権東京大会で活躍した元イラン選手のボゾルザデさん(アメリカの前コーチ)はこう云った。 - [『政治に先立つスポーツ外交』今井良春「卓球人」創刊号 特集「偲・荻村伊智朗」より](https://ogi-museum.com/takkyujin-imai) - 荻村伊智朗氏との出会いは52年の天理市の全日本卓球選手権大会に始まるが、親しく声を掛けていただくようになったのは、65年リュブリアナの世界選手権大会で荻村氏が日本のヘッドコーチをなさって、京都の精華高校と東山高校で強化合宿が行われたころからである。 この合宿ではカット打ち千本ラリーが行われた有名な合宿である。 - [Two Dreams, Two Smiles, and One Objective/Adham Sharara/23 May 2025](https://ogi-museum.com/adham-sharara) - ※2025年に行われるITTF(国際卓球連盟)役員選挙に伴い意見を求められたアダム・シャララ氏(Adham Sharara/1990年-2013年 ITTF会長)がITTFに送ったメール 2025年5月23日 2つの夢、2つの笑顔、そして1つの目標 今回の選挙(※注1)に関して、多くのメッセージや電話をいただいてお - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-18 オギムライチロウ](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-18) - 1959年頃 妻の時美と母美千枝、長女の直美 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1960年代 1960s-7](https://ogi-museum.com/gallery-1960s-7) - 1960年代に撮影。 荻村伊智朗の向かって左隣はスウェーデンのアルセア氏(Hans Alsér/1967年・1 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1980年代 1980s-1](https://ogi-museum.com/gallery-1990s-1-2) - ※1982年から1983年頃に撮影。三鷹市体育館の青卓会の練習で選手に指導する荻村伊智朗 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1960年代 1960s-1](https://ogi-museum.com/gallery-1960s-1) - スウェーデンにて撮影。 1954年世界選手権男子シングルス決勝で激闘を演じたフリスベルグ選手との1枚。 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1960年代前半 Early 1960s-1](https://ogi-museum.com/gallery-early-1960s-1) - 1961年 世界選手権北京大会 1961 World Table Tennis Championships B - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1960年代 1960s-4](https://ogi-museum.com/gallery-1960s-4) - ※前列左から、木村興治氏、村上輝夫氏。前列右から渋谷五郎氏、星野展弥氏、荻村伊智朗。 後列右から、三木圭一氏、 - [『何のために卓球をやるか?』荻村伊智朗-卓球レポート1965年4月号より](https://ogi-museum.com/1965-4-report) - 何のために卓球をやるか?人間文化向上のため ーーーもう時間もないし、最後にですね。最近ある人からこんな話をもらったんです。「新聞によると、ことしの選手団は、本当によく努力されているようだ。いままでは、特にプラハのときは、やれるだけのことをやって、ベストをつくして大会にのぞんだとはどうも思えなかった。 - [『不安が残る日本の王座』荻村伊智朗-卓球レポート1967年6月号より](https://ogi-museum.com/1967-6-report) - 決勝戦の内容は、優勝を意識して堅くなる場面が多かったが、これは今回に限ったことではない。男子シングルス優勝の長谷川は河野にドライブのコースを見ぬかれてスマッシュされ、一時はあぶなかった。しかし最後まで、落着いた試合運びで、河野の攻撃ミスを誘い振りきった。日本選手権者の優勝だけに順当といえよう。 - [「ヴィクター・バルナのコーチ論」荻村伊智朗訳 1956 SEP 卓球マンスリー](https://ogi-museum.com/1956-monthly) - 私や私の仲間達(ハズィ、ベラック等)が、はっきりと自分たちの行くべき道を認識するに至るまでの、長い茨の道について、たくさんの話をしたいと思う。 ちょうど、我々が15歳位の頃、我々は、ぼつぼつ年上の選手たちを各種大会で喰い始めたのだったが、彼ら年長者たちは、 - [荻村伊智朗「51%理論」‐中高校生指導講座1‐より](https://ogi-museum.com/51) - 戦術的研究が目的のワンサイド練習においては、ボール・コントロールもボールの威力の色々な要素(スピード、スピン、プレイスメント)も、凡て用途、目的によって価値がその時々で変化すると考えた方がよいだろう。 - [中高校生指導講座1「スポーツのすすめ」1963年 荻村伊智朗 発行/卓球レポート編集部](https://ogi-museum.com/1963-2) - ■スポーツのすすめ 一流スポーツマンの美しいフォーム、超人的な技術は見る人の心をとらえる。「自分もあのように」と、大きな夢を抱き、そしてそれを実現したよろこびにひたれるのは,青少年だけに与えられた特権だ。 芸術家が画布と絵具を、楽器と指を素材として自己の凡てを、その時代を、そして全宇宙を表現しようとするように、 - [青卓会 新会報No.2『ハロー・ピンギス』1986年6月26日 荻村伊智朗(オギムライチロウ)](https://ogi-museum.com/seitakukai-report-19860626) - 青卓会が中国訪問をした際に、北京でお世話になった楊玉華さんが、いよいよ東北福祉大へ4年間の留学開始。しばらく生活に慣れたところで、東京訪問を、ということで、青卓会がお招きをしました。 まさに卓球のアンバサダーになる素質のある人で、柔らかな物腰、明るい豊かな表情、適切なアドバイス、 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-17](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-17) - 1955年世界選手権ユトレヒト大会。オーストリアのリンダ・ウェルツェル選手と - [『受けてたつな』バタフライ トピックス 1955 荻村伊智朗‐1954.12.23‐](https://ogi-museum.com/butterfly-1955) - 受けてたつな ボムベイで、我々の先輩が4つの覇権を奪った時、彼等は”驚き”だと云ったそうだ。事實、彼等欧米の選 - [IOC総会 1998年長野冬季五輪報告書 1991年6月 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1991-ioc) - バルセロナIOC総会 98年冬季五輪報告 1991,06,17 JOC国際委員長 荻村伊智朗 ソルトレイクに比 - [東京新聞1991年4月24日「いつか全世界 笑顔の大会を」荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1991-04-24) - 英国のアン王女に「卓球は100メートル競走をしながら、ブリッジをするようなスポーツです」と申し上げたことがある。 ソウル・オリンピックで、卓球会場に二度も足を運ばれたので、わが党の士と思ったのだ。「そうですね。でも、私の卓球は、走りながらのポーカーね。なぜって、私はブリッジをしませんから」 - [卓球の数字『日本の千人』より抜粋 1994年 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1994-nihonnosennin-2) - (編注:「日本の千人」第2号より抜粋。「日本の千人」は荻村伊智朗が日本卓球協会 国際競争力向上委員会委員長のと - [ポジティブ思考について『日本の千人』より1994年 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1994-nihonnosennin-3-1) - (編注:「日本の千人」第3号より抜粋。「日本の千人」は荻村伊智朗が日本卓球協会 国際競争力向上委員会委員長のと - [『無題』日本卓球協会の課題などについて鈴木会長へ送った手紙 昭和38年12月16日 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1963) - 会長及び事務局の略取手段については、フィリピン、韓国、台湾が三者三様の利益のために結託し、種々裏面工作を行い、フェアプレイの精神に反することおびただしいものを認めましたので、長谷川氏がカップを頂いて帰国した行動を私は支持しています。 台湾→中華民国の名(※1?)が得られるならば、他の二国に同調する。 - [相手のサーブミスに対して拍手するのは最低のマナー『日本の千人』より1994年 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1994-nihonnosennin-3) - ベンチの話が出ましたから、お願いをしたいんですけれども、相手がサーブミスをしたときに拍手をするケースが多くなっています。これはもうスポーツとしては、最低なマナーですからやめて欲しいです。 観客席にいる父兄の方々も相手がサーブミスしたときに、拍手をしている方がたくさんいます。 スポーツというのは、動物にはない。 - [『日本の千人』創刊号 1993年10月25日 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1993-10-25) - 巻頭言 この「日本の千人」情報共有化プロジェクトは、93年7月に開催された日本卓球協会加盟団体選手強化責任者会議で満場一致で採択され、10月から発足した。加盟団体に推薦を依頼したところ、多くの推薦があった。規定通り、国際競争力向上委員会からの推薦もおこなった。 「上善如水」という。 - [日中友好卓球研究会『ニューズレター』より 「なぜ中国コーチなのか」1985年 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1983-news) - このたび、中国政府のお計らいや、日本の卓協関係者や友人のご協力で、私の四半世紀に及ぶ友人である岑さん、楊さんをお招きすることができました。 また、中国スポーツ界きっての日本語若手通訳で李友林さんの大学研修をお手伝いできることになりました。 - [卓球を始める前(0歳-15歳)-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/0-15-years-old) - 1932年(昭和7年)6月25日 父素男、母美千枝の長男として伊東市(静岡県)に生まれる 1935年(昭和10年)3歳 3月20日 父32歳で死去(2歳9ヶ月で母1人子1人に) 1940年(昭和15年)8歳 小学2年のとき、東京都三鷹市へ引っ越す - [日中友好卓球研究会『ニューズレター』より 「卓球との出会い」1986年 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1986-news) - 卓球との出会い 私が卓球と出会ったのは、自分の家でだった。 それは三鷹へ来てからだった。 私は静岡県の伊東市が伊東町といっていたころ、そこの岡区久治町というところで生まれた。父も母も東京の生まれと育ちだったが、結婚して伊東に居を構え、文具屋と小間物屋をいとなんだ。 私は七つのころまで伊東にいた。 - [「『日本の千人』の発刊にあたって」より](https://ogi-museum.com/writing) - さて、日本卓球が世界で勝つというのは、国際競争力の向上活動にたずさわるものの最終目的ではない。卓球が、人間の生 - [『青卓会 会報No.17』1976年度青卓会活動をふりかえって 1976年12月 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/seitakukai-1976-8) - 1976年度青卓会活動をふりかえって 1976年12月 荻村伊智朗 1976年の会の情勢は、全く“すばらしい”の一語につきる。1976年に山中ヘッドコーチから発表された活動目標は100%消化されてきた。それだけでなく、試合に参加した成績は目標を大きく上廻った。 - [『日本卓球、今後の興隆策について』日本卓球協会 専務理事 荻村伊智朗 1983年8月6日](https://ogi-museum.com/1983-08-06) - 第37回世界選手権大会は、別冊報告書の通り、成功裡に組織運営され、第三者からも高い評価を受けました。日本チームの成績も無冠とはいえ、ノビサド後、2年間の日本卓球界全員の努力が実り、長期低落傾向が止まり、少し向上しました。各方面での御努力に対し、深甚な敬意を表します。 - [『世界チャンピオンになるような人はクリエイティブなんですね』卓球ジャーナル1987年冬号 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1987-winter) - 日本の卓球という1つの定型句というか何か実体があるような、形がみんなの目に見えてくるようなイメージをもった言葉というのがあると思います。 私と田中利明(昭和30・32年世界チャンピオン)が映画をつくりました。その題は『日本の卓球』と言います。 これは、日大の映画学科が毎日映画社と一緒に作り - [強対ニュース 創刊号「なんのために卓球をやるか。“好きだから”の限界を踏み越えろ 荻村伊智朗 1965年](https://ogi-museum.com/kyotainews-1) - なんのために卓球をやるか “好きだから”の限界を踏み越えろ これからいろいろな練習をやる。なぜそういう練習をやるか、心構えとして知っていないと、帰ってから、自分の学校の同僚なり指導者、あるいは先輩に、「合宿はどうだった」と聞かれても、返事ができない。 - [青卓会 新会報No.5 1986年11月6日 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/seitakukai-report-19861106) - 今年は日中スポーツ交流30周年記念の年です。私は日本体協代表団の一員として北京マラソンの行われた10月19日、北京を訪問しました。マラソンの好記録は寒い気候と小雨に助けられたとのことで、よいコンディションといっても、いろいろあるものだと思いました。 日中スポーツの歴史は卓球交流の歴史といっても過言ではありません。 - [青卓会 会報No.20「青卓会の進化論」1977年10月18日 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/seitakukai-report-19771018) - 青卓会の進化論 昔、といってもそんな大昔でないころ、外国の遊園地で競馬ゲームというのを見た。器械じかけで、木馬がカタカタと前へ進む。6頭だか8頭だかの木馬がいっせいにスタートするが、どれが一番になるかわからない。 途中までピョコピョコ飛び出していたのがおそくなったりするが、器械じかけのせいで木馬はいつも動いているわけ - [『今後の世界選手権・オリンピックで勝つのは、どんな選手か?また、そういう選手を育てるのは、どんなコーチか?』卓球ジャーナル1983年夏号 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1983-summer) - 藤井:独創性のある者が部活動のなかで殺されてるじゃないか。また独創的なプレイヤーでは現実にいまの中学高校でなかなか勝てないじゃないか――という2つの問題が野平君から出されたわけですけれども、荻村さん、いかがですか? 荻村:いまね。自分が高校生とか大学生であって、どっか卓球部を選ぶということになった場合に - [青卓会 会報 No.3 1968年2月1日 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/seitakukai-report-19680201) - スウェーデンの卓球クラブと青卓会が国際姉妹のクラブに! お便りと写真ありがとうございました。 青卓会会活動、活発なようで結構です。スウェーデンのファルクンベルグ卓球クラブ(先日、会員の勤労奉仕で10台おける練習場を、ブタ小屋の上につくりました)から、国際姉妹クラブの申し込みがありました。 - [青卓会 会報No.1「新らしい酒」1968年1月11日 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/seitakukai-report-19680111) - 新らしい酒 新らしい酒は、「新しい皮袋に盛れ」といいます。青卓会の歴史も10年を過ぎる1967年になって、にわかに会員の間に会の発展に対する熱意が盛り上ってきました。その機運を引き継いだ1968年初頭2度にわたる会合は、会則の改正、新役員の選出、新事業の立案など、まことに実り多いものがありました - [青卓会(専修部)新会報No.4『国際卓球会館の建て直し』1986年9月25日 荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/seitakukai-report-19860925) - 国際卓球会館の建て直し 昭和32年に開館した国際卓球会館は、荻村の3回の世界選手権団体連続優勝を記念して、荻村、渡辺正一、沢登貞行の三氏を中心に設立され、その後、渡辺、荻村の両名が中心となり、多数の方の御好意に支えられて、今日まで命脈を保ちました。 - [『青卓会の歴史とこれから』荻村伊智朗 1973年](https://ogi-museum.com/seitakukai-history) - おこりから現在までの活動状況 青卓会は20年前の年に吉祥寺の上原さんの武蔵野卓球場で始められた。始めた人たちは斉木さん、内田さん、沖さん、荻野さん、私、田中さんなど10人ぐらいおられる。当時、上原さんの卓球場には、青卓会と吉祥クラブの2つがあった。そのメンバーが一緒になったかたちで青卓会ができた。 - [『技術革新と“常勝日本”の回復』1982年夏号 卓球ジャーナル「発行人から」より‐荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1982-summer) - 技術革新と“常勝日本”の回復 卓球用具や卓球ゲームの設計思想において世界をリードしてきた日本が、70年代以後、中国に完全に追い抜かれた。粒長ラバー、アンチのソフト化、シェーク異質、投げ上げサービス……等々。しかし中国のマネ、中国の後追い、でない発想でこれからの日本の強化を考えていこう - [『ノビサドからの半年』1982年春号 卓球ジャーナル「発行人から」より‐荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1982-spring) - ノビサドからの半年 ノビサドの世界選手権(81年4月)のあと、中国もヨーロッパも一息入れた。日本は矢つぎばやの強化策を打ち、ベテランと新人の争いが激しくなってきている。大勢の人が「世界」に目を向けはじめたのは喜ばしい。日本は中国を上回る潜在能力をもっているように思う。 - [『中国男子の強さは本格復活か』1980年6月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-6) - 中国男子の強さは本格復活か 上海オープン団体戦でみせた中国男子若手の強さは圧倒的なものだあった。日本の高島、内田、前原らは、いまどんな大会をやってもコンスタントに上位へ進出する実力者だが、12~15本の平均でやられている。 - [『卓球をたたえる』1980年3月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-3) - 卓球をたたえる "きけわだつみの声”を忘れたのか。が、オリムピックボイコット問題への私の感想である。 日本人は想えば人類にとって貴重な体験を持っている。オリムピックのメダリストを含み、有名なプロ野球選手を含み、多くの有意の青春が第二次大戦の露と消えた。この体験を忘れてはいけない。平和あってのスポーツではないか。 - [『性格』荻村伊智朗語録 1980年2月](https://ogi-museum.com/quotations-1980-2-2) - 性格 また、高校の国体予選での敗戦から、”俺は勝利を目前にしてブルう”と自分を規定したからこそ、練習のときに、いつもブルいそうな心の状況を工夫し、それに耐えることによって、自分の意識する欠点を出さないですむようになった。 そしてその反面の長所を大いに発揮できるようになった。 荻村伊智朗 - [『性格』荻村伊智朗語録 1980年2月](https://ogi-museum.com/quotations-1980-2) - 性格 せってくると固くなり、頭が混乱したり、思考がとまってしまったりしていやだ、とおもって今年こそは努力して自分の性格を変えたいという人もいよう。 私の考えでは、ある性格にはそれなりの長所と短所がある。 短所と長所は貨幣の裏と表のようなもので、短所をなくせば長所も失われる。 荻村伊智朗 - [『ロング、カット、ショートという概念』1979年11月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-11) - 9月は多忙な月だった。アラブ卓連(21ヶ国加盟)のコーチセミナーとアムパイアセミナーを11日間、アラビア半島の東端のバハレーンで木村興治さんといっしょにやり、帰国したと思ったら、また国際卓連の関係でインドネシアで行われた第10回東南アジア競技大会の開会式に臨席し、ついで東南アジアコーチセミナーを3日間、 - [『雑誌の功罪』1979年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-9) - 私たちが高校生のころ、指導書といえば今孝氏の『卓球』と福士敏光氏の『卓球』であった。 これらの本がいまの指導書とちがうのは、写真がきょくたんに少ないことだった。シャッタースピード25分の1秒くらい、しぼり8ぐらいでうつす写真だから、たいてい屋外で撮影してあり、しかも“コマどめ”であった。 - [『大器晩成ということ』荻村伊智朗語録 1979年3月](https://ogi-museum.com/quotations-1979-3) - 「大器晩成」ということ 生まれつきの大きな器をもっている人は……という意味での大器晩成もあろうが、私には“器”は自分次第で変るもの、という気がするのだ。 いたずらに生まれつきの才にたのんだり、がっかりしたりする必要はない。 荻村伊智朗 卓球ジャーナル 1979年3月号「発行人から」より 卓球ジャーナル 1979年3月号「発行人から」全文はこちら - [『下積みの実力』荻村伊智朗語録 1978年12月](https://ogi-museum.com/quotations-1978-12) - 下積みの実力 人が、その下積みの期間に、これでもか、これでもまだか、と努力することで“彗星”のエネルギーが産まれ、爆発力がたくわえられるのだ。 いまも、世に出るのを待ちつつ、下積みの努力を重ねているすばらしい若者が、日本のどこかにきっといるのではないか。君がほんとうに下積みならば、君は幸運児なのだ。 荻村伊智朗 卓球ジャーナル 1978年12月号「発行人から」より - [『尋ねるということは力量のいることである』荻村伊智朗語録 1978年10月](https://ogi-museum.com/quotations-1978-10) - 尋ねるということは力量のいることである コーチが次から次へと教えてくれることに、消化不良をおこしながら懸命についていく選手生命もあろう。 口をあけて、コーチがはこんでくる餌を待つだけの選手生命もあろう。 しかし、卓球ジャーナルの読者は、“尋ねることの大切さ”を知る人であってほしい。 - [『雨滴 石を穿つ』荻村伊智朗語録 1978年5月](https://ogi-museum.com/quotations-1978-5-2) - 雨滴 石を穿つ 毎日の努力の行くえは一粒の雨滴が石に落ちたように頼りなげに思えるときもあるが、やがて石を穿つ日 - [『ある一点にむけて 小さな力でも集中してたくさん行えば、必ず質に変化がおこる』荻村伊智朗語録 1978年5月](https://ogi-museum.com/quotations-1978-5) - こういうと、なにか「質より量」と言おうとしているように聞こえるかもしれないが、実は、そうではない。どうも量と質は反対しあうものではなさそうだ、と言いたいのだ。「量は質を保証する」ともいえるし、「量の拡大は、ある程度に達すると質の変化をもたらす」ともいえよう。 - [『アルセア基金の発足を祝う-ヨーロッパ卓球中興の祖 ハンス・アルセア氏 卓球に殉ず-』1976年11月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1976-11) - スウェーデンのナショナルコーチ、ハンス・アルセア氏(34才)が、1月15日ストックホルム郊外において、飛行機事故で亡くなった。アルセア氏は、ストックホルムで行なわれる予定であった第34回世界選手権大会の準備をする、スウェーデン卓球協会の会議に出席するために - [『日本は卓球王国ではない?』1976年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1976-10) - 先日来日した国際卓球連盟会長、ロイ・エバンス氏は、1925年、15才のときにウェールズのカージフ市で卓球を初めた。世界選手権大会にも同国代表として数回参加した。世界選手権大会の参加者有志で組織しているスウェスリングクラブインターナショナルのメンバーでもある。 - [『卓球とオリムピック』1976年7月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1976-7) - モントリオールでのオリムピックでは、世界新記録が数多く生まれた。また、体操では世界新記録という呼び名はないようだが、空前の点というスコアが出た。このように、やはり世界のスポーツ界は前進しているという印象が非常に強い大会であった。 そういう中でも、伸びているスポーツ - [『卓球とオリムピック』1976年6月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1976-6) - オリンピックの季節である。卓球はノンオリムピック種目中の王者だ。123の加盟協会をもっていて、80カ国を一堂に集めるような大会を毎年開催する実力を発揮している。最近もある有力なIOC委員が、ブダペストのテレビインタビューで、「十数カ国のノンオリムピック種目のうち、卓球参加の問題は重要」と答えている。 - [『敏捷性』1976年2月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1976-2) - 敏捷性は筋肉と神経だけの問題ではない 前号で紹介したヨーロッパ卓球連合のコーチ会議の話題に、敏捷性という言葉が盛んにでてきた。敏捷性を司どる器官にはいろいろあろうが、筋肉の強さばかりに重点をおいては片手落ちになるような気がする。また、神経の問題だけを考えてもなにか欠けているようなのだ。 - [『復元力』荻村伊智朗語録 1975年12月](https://ogi-museum.com/quotations-1975-12) - 復元力 卓球でも、かつて卓球の奥義を極めたとおぼしき人の伝説的な話や、いまなおプレイの断片からキラリと光るありし日の姿やプレイを自分のイメージに復元し、それを自分の刺激とできる人は、学びとる力を発揮できる人といえるのではないか。 荻村伊智朗 卓球ジャーナル 1975年12月号「発行人から」より - [『オランウータンの社会復帰』『チャンスボール』1975年8月 卓球ジャーナル「発行人から」より‐荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1975-8) - 最近、アフリカだかのある国が、世界中のペットのオランウータンの社会復帰の場を提供して話題になっている。動物園や個人の愛がん用のオランウータンが世界的に増えすぎているので必要になったとのこと。 - [『第2回アジア・アフリカ・ラテンアメリカ卓球友好大会』1975年7月 卓球ジャーナル「発行人から」](https://ogi-museum.com/journal-1975-7) - 第2回アジア・アフリカ・ラテンアメリカ卓球友好大会 第2回アジア・アフリカ・ラテンアメリカ卓球友好大会が7月1 - [『120番目の国際加盟協会を歓迎する』1975年6月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1975-6) - 120番目の国際加盟協会を歓迎する サウジアラビアから卓球の代表団がやってきた。団長のアル・マレークさん(30 - [『仕事を時間で計ることをスポーツマンはよそう』荻村伊智朗語録 1975年5月](https://ogi-museum.com/quotations-1975-5-2) - 仕事を時間で計ることをスポーツマンはよそう。 スポーツマンの仕事は、「なにかを仕上げた」ときに終わるのであって - [『きみよ評論家になるなプレイヤーになれ』荻村伊智朗語録 1975年5月](https://ogi-museum.com/quotations-1975-5) - やれないが“知っている”のは評論家だ。 きみよ評論家になるなプレイヤーになれ。 プレイヤーとしての若さを失ったのち、プレイヤーの苦しみをしっている評論家になれ。 荻村伊智朗 - [『無題』1975年5月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1975-5) - 天才はいるのだろうか。 いる。 それはきみだ。それは、ぼくだ。 天才はいないのだろうか。 いない。 みんなが天 - [『田中利明の掲載を終えるにあたって』1975年4月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1975-4) - 田中利明の掲載を終えるにあたって 3年3カ月にわたって連載させていただいた「田中利明伝」がいよいよ完結を迎えま - [『あることがわからないために、わかっていることまで見失わないようにしよう。できないことがあってもよい。できることにベストをつくせ』荻村伊智朗語録 1975年3月](https://ogi-museum.com/quotations-1975-3) - 解決できない条件があってもよい 解決できない条件を孤立させよう あることがわからないために、わかっていることまで見失わないようにしよう。 できないことがあってもよい。 できることにベストをつくせ。 荻村伊智朗 - [『解決できない条件があってもよい 解決できない条件を孤立させよう』1975年3月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1975-3) - 解決できない条件があってもよい 解決できない条件を孤立させよう -あることがわからないために、わ - [『「スポーツと政治」の幻想』荻村伊智朗語録 1972年9月](https://ogi-museum.com/quotations-1972-9) - 私達がスポーツの試合場で感動するのは、すぐれた技術を支える豊かな人間性を見たときである。技術的にはいくらすぐれたチャンピオンであっても、いくらすぐれた監督であっても、その人のおかれた歴史状況の中での役割りを知らぬ言動があれば、どんなすぐれたプレイを披露した直後であっても、人々はがっかりしてしまうにちがいない。 - [『佐藤さんの負けっぷりから、私は自分の試合のどんな大事な場面にでも忘れがたい大きな教訓を学んだ』荻村伊智朗語録 1972年11月](https://ogi-museum.com/quotations-1972-11) - 話は本論に入るが、私はいつだったか、佐藤博治さんの敗戦について書いたことがある。1952年5月ボムベイの覇者日本に挑戦しにやってきたバーグマン、リーチが、その15連勝目を飾る日英対抗最終戦東京大会でのできごとである。 - [『歴史と抗争』『世代の交代』1972年11月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1972-11) - 歴史と抗争 日本の卓球界は今年で70年たったが、一言でいえば、それは対立と抗争の歴史であった。卓球界の舞台が日 - [『捨て身の強さは“この一手しかない”という明快な決断の強さであり、退くことを知らない背水の陣の強さである』荻村伊智朗語録 1972年4月](https://ogi-museum.com/quotations-1972-4) - 心に二の矢はつがえまい 藤井戦での“この一番”にすべてをかけた捨て身の心境は、世界選手権まで続き、われながら思い切りのよい勝負に終始した。 捨て身の強さは“この一手しかない”という明快な決断の強さであり、退くことを知らない背水の陣の強さである。 卓球ジャーナル 1972年4月号「発行人から」より - [『大切なのは稀にみる素材ではなく稀にみる努力である』荻村伊智朗語録 1973年8月](https://ogi-museum.com/quotations-1973-8) - 天才プレイヤー三条件 10年後のための計画を今からやる決心がついて、実行力のある人であれば、必ず私やあるいは、その他の世界チャンピオン級の選手たちと同じような水準に達することはだれにでもできるはずである。 必要なのは稀に見る素算ではない - [『スポーツマンが“わかった”といえるときは“身体でやれた”ときだ』荻村伊智朗語録 1974年10月](https://ogi-museum.com/quotations-1974-10) - 情報がないよりはあるほうが幸せである。 だが、その情報をどうつかうか、が大切だ。 スポーツマンが“わかった”と - [『心に二の矢をつがえまい』荻村伊智朗語録 1972年4月](https://ogi-museum.com/quotations-1972-4-2) - 心に二の矢をつがえまい 徒然草だかに「此の一矢に定むべしと思へ」と、二の矢をもって的に向かう心をいましめた言葉 - [『それにしても勝負というものは、それに臨む心構えで戦う前に大かた決まってしまっているようだ』荻村伊智朗語録 1972年4月](https://ogi-museum.com/quotations-1972-4-3) - 世界選手権にせよ、インターハイにせよ、本番は一発勝負である。「もう一回やらしてくれ」はない。 一発勝負で実力を発揮できないものは、普段の生活に甘さがあるものである。 それにしても勝負というものは、それに臨む心構えで戦う前に大かた決まってしまっているようだ。 卓球ジャーナル 1972年4月号「発行人から」より - [『若者に74年の夢をたくす』1973年12月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1973-12) - 若者に74年の夢をたくす 1973年は日本卓球界にとって多難なとしでした。サラエボの世界選手権大会で明け、駒沢 - [『周総理の接見から』1973年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1973-9) - 周総理の接見から 9月8日、3A大会の閉幕の二日後、北京の首都体育館はまたも一万八千の大観衆が卓球をみるために - [『天才プレイヤー三条件』1973年8月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1973-8) - 天才プレイヤー三条件 インターハイの会場で私に「どうですか、いい選手がいますか」と聞いた人がいた。私は「長谷川 - [『新アマ規定の制定』『世界選手権大会に集まるOB達』1973年3月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1973-3) - 新アマ規定の制定 卓球協会の新しいアマ規定が全国評議員の郵便投票によって採択された。卓球協会が3月18日の定例 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-16](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-16) - 1954年 世界選手権優勝後 三鷹市役所 三鷹駅前通り 三鷹第四小学校 三鷹駅前広場 - [『卓球技術の習得順序』1971年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-9) - 卓球技術の習得順序 先日の全国中学生大会の最終日のことですが、熱心な先生方と名古屋大会代表選手達との話合いがあ - [『後藤会長訪中の成果を祝す』『気力第一、体力第二、技術第三』1971年5月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-5) - 後藤会長訪中の成果を祝す 第31回世界選手権大会は成功裡に終りました。世界選手権は卓球最高の行事であり、これの - [『日本の強化再建はおそすぎたか?』『進歩という言葉』1970年12月 卓球ジャーナル「発行人から」より‐荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1970-12) - 日本の強化再建はおそすぎたか? ものごとには、すべて実行のタイミングがあります。たとえば私たちの卓球では、どん - [『ドーピング』『よくなった学生リーグ戦のマナー』1970年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1970-10) - ドーピング 1954年の春、第21回世界選手権大会の開かれていたロンドンでのできごとです。風邪ぎみだった日本チ - [『機能的な体操』1970年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1970-9) - 機能的な体操 16年前の世界選手権で、練習や試合の前後に柔軟体操をやり、ダッシュをやり、素振りをやったのは日本 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-15](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-15) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1960年代 1960s-5](https://ogi-museum.com/gallery-1960s-5) - 左から三人目は周恩来総理(Premier Zhou Enlai) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1980年代後半 Late 1980s-3](https://ogi-museum.com/gallery-late-1980s-3) - 写真右は徐寅生氏(Mr.Xu Yinsheng) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-14](https://ogi-museum.com/gallery-1950-14) - 日本大学在学時 リーグ戦 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-10](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-10) - リチャード・バーグマン氏と(Richard Bergmann) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-13](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-13) - 1954年、世界選手権ロンドン大会 出発前 世界選手権ロンドン大会に出発前の荻村伊智朗と富田芳雄氏(左から二人 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-12](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-12) - 1953年、マッカーサー杯 都市対抗戦 東京代表 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1960年代 1960s-3](https://ogi-museum.com/gallery-1960s-3) - 荘則棟氏(Mr.Zhuang Zedong)と荻村伊智朗 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1970年代1970s-1](https://ogi-museum.com/gallery-1970s-1) - 徐寅生氏(Mr.Xu Yinsheng)、木村興治氏、荻村伊智朗 - [報知新聞 1994年9月14日号 協和発酵クックママ卓球交流会 荻村伊智朗さん特別講習会](https://ogi-museum.com/houchi-1994-9-14) - 荻村氏に聞く 卓球は生涯スポーツと言われていますが、大切なことは、生涯にわたって上達することです。 卓球はとり - [卓球の世界チャンピオンから学ぶ“市場創造”と“勝負のコツ”「月刊流通ビジネス」1988年8月号より](https://ogi-museum.com/ryutsubusiness-1988-08) - 卓球の世界チャンピオンから学ぶ“市場創造”と“勝負のコツ” 多様化時代に合わせて人材を育てる 船井:最近、卓球 - [『お礼とお願い』1981年3月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1981-3) - お礼とお願い 卓球の雑誌に定期的に原稿を書きはじめてから24年になります。はじめは卓球レポート。6ページの創刊 - [『卓球ブーム』1981年2月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1981-2) - 卓球ブーム 日本卓球協会の機関誌が装いも新たに3月から月刊になり、会員へひろくオープンされることになった。卓球 - [『日本は再び世界一になる』1981年1月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1981-1) - 日本は再び世界一になる 全日本選手権大会で優勝した阿部、和田、海鉾・塩田、神田・山下、村上夫妻、その他の選手の - [『中国の練習を上回るもの』1980年12月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-12) - 中国の練習を上回るもの 第1回ワールド・カップの特集を東京12チャンネルTVが10月26日の日曜日、午後2時か - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-9](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-9) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1960年代 1960s-2](https://ogi-museum.com/gallery-1960s-2) - 中国にてスウェーデンのアルセア選手(Hans Alsér/1967年・1969年 世界選手権男子ダブルス金メダ - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-6](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-6) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代前半Early 1950s-1](https://ogi-museum.com/gallery-early-1950s-1) - 1954年 世界選手権ロンドン大会 1954 World Table Tennis Championships - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代前半Early 1950s-2](https://ogi-museum.com/gallery-early-1950s-2) - 1954 World Table Tennis Championships - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代前半Early 1950s-3](https://ogi-museum.com/gallery-early-1950s-3) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代後半 Late 1950s-1](https://ogi-museum.com/gallery-late-1950s-1) - 1955 World Table Tennis Championships - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代後半 Late 1950s-2](https://ogi-museum.com/gallery-late-1950s-2) - 1956年 世界選手権 東京大会 1956 World Table Tennis Champio - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1930年代 1930s](https://ogi-museum.com/gallery-1930s) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1940年代 1940s](https://ogi-museum.com/gallery-1940s) - 荻村伊智朗が卓球をはじめて5年半で日本一になるまで - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1960年代後半 Late 1960s-1](https://ogi-museum.com/gallery-late-1960s-1) - 1965年 世界選手権 リュブリアナ大会 1965 World Table Tennis Cha - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代前半Early 1950s-4](https://ogi-museum.com/gallery-early-1950s-4) - 1952年 全日本軟式選手権 優勝 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代前半Early 1950s-5](https://ogi-museum.com/gallery-early-1950s-5) - 1953年 全日本選手権 初優勝 1953 All Japan Championship - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代前半Early 1950s-6](https://ogi-museum.com/gallery-early-1950s-6) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代前半Early 1950s-7](https://ogi-museum.com/gallery-early-1950s-7) - 1954年 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1970年代前半 Early 1970s-1](https://ogi-museum.com/gallery-early-1970s-1) - 1971年 世界選手権 名古屋大会 1971 World Table Tennis Champi - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代後半 Late 1950s-4](https://ogi-museum.com/gallery-late-1950s-4) - 1957年 世界選手権 ストックホルム大会 男子シングルス決勝 1957 World Table - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代前半Early 1950s-8](https://ogi-museum.com/gallery-early-1950s-8) - 1954年 全英選手権大会(ロンドン) 日本は全種目で優勝。写真は混合ダブルスで優勝した荻村伊智 - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1980年代後半 Late 1980s-1](https://ogi-museum.com/gallery-late-1980s-1) - 1987年 世界選手権ニューデリー大会 1987 World Table Tennis Championshi - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1980年代後半 Late 1980s-2](https://ogi-museum.com/gallery-late-1980s-2) - 1988年 アジア選手権でのスピーチ Speech at the 1988 Asian Championshi - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1970年代後半 Late 1970s-1](https://ogi-museum.com/gallery-late-1970s-1) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-1](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-1) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-2](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-2) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-3](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-3) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代後半 Late 1950s-5](https://ogi-museum.com/gallery-late-1950s-5) - 1955年 世界選手権ユトレヒト大会 オーストリアのリンダ・ウェルツェル選手と - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-4](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-4) - [荻村伊智朗 Ichiro Ogimura Gallery 1950年代 1950s-5](https://ogi-museum.com/gallery-1950s-5) - 1954年世界選手権 ロンドン大会 ロンドン大会後、パリにて - [『練習の質と量』1980年11月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-11) - 練習の質と量 東山高校がインターハイ30年連続出場の偉業を成し遂げた。名門京都のことだ。挑戦するものがいなかっ - [『技も最高の3A』1980年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-10) - 技も最高の3A 3A大会の準決勝と決勝は世界選手権と同水準だった。これを見た人は得をした。ピョンヤンやノビサド - [『80年秋のビッグイベント』1980年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-9) - 80年秋のビッグイベント 3A大会が近づいた。9月2日から7日迄、千駄ヶ谷の東京体育館で行われる。私にとっては - [『続けること』1980年8月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-8) - 続けること 初めて日本のタイトルを手にするまで4年余りかかったが、その私は、高校1年の2学期から卓球を始めた。 - [『だるまの目』1980年5月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-5) - だるまの目 来日中のマレーシアのジュニア選手が私の会社の事務所を訪ねて、片目のだるまやら両目のだるまがいくつか - [『一に情熱、二に節制』1980年4月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-4) - 一に情熱、二に節制 この春、おおぜいの人が卓球部に入る。そして、同じくらいの人が卓球部を去る。うちこめばうちこ - [『性格』1980年2月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-2) - 性格 新しい年を迎えて、一念発起した人が多いとおもう。新しい目標をたてた人もいようし、ふるい目標をもう一回、こ - [『伸びるとき』1979年8月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-8) - 伸びるとき カットマンは鈍くてもよい、というのはまちがいだ。“デモカット”という言葉がある。運動神経が鈍いので - [『無心』1980年1月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1980-1) - 無心 1979年12月の全日本決勝は、片面イボ高に変えた高島君が二連勝を飾った。女子で優勝した和田君もアンチに - [『中国の味はなんといってもショートプレイ』1979年12月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-12) - 中国の味はなんといってもショートプレイ 11月来日した中国の若手で、小野選手に東京の西武の交流大会で勝った膝毅 - [『技(わざ)の深み』1979年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-10) - 技(わざ)の深み 文部省の指導員派遣事業で、昨年からときどき各地へおじゃまして実技をやることがある。今年はあと - [『チャンスをつかむ力』1979年6月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-6) - チャンスをつかむ力 ピョンヤンの女子シングルスで目立たぬ存在の葛新愛が優勝した。といってしまえば簡単だが、2万 - [『得意技』1979年5月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-5) - 得意技 中越戦争の報道の中に、近代戦の大砲は一発打ったらレールの上を走って移動し、また打っては位置を変える“自 - [『日本の社会制度の中で世界で勝つには』1979年4月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-4) - 日本の社会制度の中で世界で勝つには 2月27日板門店でおこなわれた第1回南北朝鮮卓球協会のピンポン会談を前にし - [『尋ねるということは力量のいることである』1978年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1978-10) - 尋ねるということは力量のいることである 私の属しているクラブは、Mさんという全国的にも名のしられたキャリアのあ - [『省エネルギー式卓球』1979年2月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-2) - 卓球はゴルフなんぞよりはるかにむずかしい。止っているボールを打つのと動いているボールを打つのとのちがいだ。 と - [『「大器晩成」ということ』1979年3月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1979-3) - 空手の大山倍達氏の若い頃、松濤流のある師がその衒気(げんき)をいましめて“大器晩成”との書をおくった。私もこの - [『下積みの実力』1978年12月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1978-12) - 私が初出場で全日本硬式に優勝し、世界選手権に優勝したとき、新聞は、“無名の荻村という若手が一躍……”と書いた。 - [『発球とサービスのちがい』1978年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1978-9) - 発球とサービスのちがい 卓球は歴史のあるスポーツだ。起源は100年以上も前にさかのぼる。 起源の古いスポーツの - [『78年日中大会 中国チームの置きみやげ』1978年8月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1978-8) - <技術は道具に勝てない>という命題をあなたはどう思われるか。 賛成意見は次のようであろう。 「そ - [『雨滴 石を穿つ』1978年5月 卓球ジャーナル「発行人から」-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1978-5) - 一粒の雨だれは力の弱いものである。 しかし、何年、何十年と石を打ち続ける雨だれは、しまいには石に穴をあけてしま - [『城戸名誉会長と後藤新会長の意味』1976年5月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/1976-5-journal) - 城戸名誉会長と後藤新会長の意味 ある国の選手やコーチが3年がかりで、何百時間もかかって、ようやく使えるようにな - [『新らしいシーズンに寄す』1976年4月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1976-4) - 新らしいシーズンに寄す 「少年老い易く、学成り難し 一寸の光陰、軽んずべからず いまだ覚めず、池塘春草の夢 階 - [『ヨーロッパコーチ会議の報告書 アムパイアについて』1976年1月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1976-1) - ヨーロッパコーチ会議の報告書 アムパイアについて ヨーロッパ卓球連合の主催するコーチ会議は、1974年に西ドイ - [『復元力』1975年12月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1975-12) - 復元力 ものごとを教わるには、教わる力がいる。学校での勉強には、たとえば、そのとき教わることを読みとる力がいる - [『無題』1975年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1975-10) - 無題 カルカッタ世界選手権の年が終わろうとしている。もちろん、バーミンガム大会は、もうはじまったといえる。 先 - [『岩手の美術館』1975年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1975-9) - 岩手の美術館 岩手にある72才の老画家が50年の画業を記念して、自然主義派の絵を中心とした美術館を建てた。 N - [『無記とアマ』1974年12月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1974-12) - 無記とアマ アマチュアリズム 1974年10月21日~24日 オーストリアのウィーンにおいて行なわれたオリンピ - [『情報をうまくつかうために』1974年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1974-10) - 情報をうまくつかうために 私が卓球をはじめたころにも指導書があった。卓球の月刊誌もあった。私がむさぼり読んだこ - [『基本とはたしかな、動かせるもの』1974年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1974-9) - 基本とはたしかな、動かせるもの 74年9月にテヘランで行なわれた、アジア競技大会で合計77ケの金メダルを獲得し - [『世界の3部から抜だけそう学生陣』1974年7月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1974-7) - 世界の3部から抜だけそう学生陣 伸びが目立たない 学生卓球界の仲び悩みはほんとうに残念だが目をおおいたくなるも - [『世界卓球界の傾向について』1974年6月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1974-6) - 世界卓球界の傾向について -これからの選手はどういう点に注意して訓練すべきか- 世界卓球界の傾向を総括してみる - [『中国の少年宮をみる』1974年5月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1974-5) - 中国の少年宮をみる 中国の英才教育施設、少年宮が活動を再開している。文化大革命前、荘則棟も李富栄もそれぞれ北京 - [『すぐれた卓球選手は必ずすぐれた卓球研究家である』1974年8月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1974-8) - すぐれた卓球選手は必ずすぐれた卓球研究家である 以前、私はある雑誌に十年間協力し、卓球の記事を書いていたことが - [『祝 第2回アジア卓球選手権大会 今大会の三つの特徴』1974年3月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1974-3) - 祝 第2回アジア卓球選手権大会 1.日本で行なわれるアジア大会としては史上最大 現在、国際卓球連盟(ITTF) - [『飛躍の年』1974年1月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1974-1) - 飛躍の年 1974年は、日本の卓球界にとって飛躍の年になりそうである。故後藤鉚二会長の遺志を受け継いで、日本卓 - [『自信』『朝鮮』『AGF』1973年11月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1973-11) - 自信 朝鮮 AGF ある心理学者の話をきく機会があった。その人によれば、自信とは「自分が他の人とはちがう特ちょ - [『このごろ考えること』1973年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1973-10) - このごろ考えること 8月から10月にかけて約6週間、中国と朝鮮を訪問し卓球についていろいろ考える機会がありまし - [『大会場のマナー』1973年7月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗](https://ogi-museum.com/journal-1973-7) - 大会場のマナー 選手は、できるだけ完璧な試合をつくりたい、と思うものだ。観る者ももちろんそうなることを望んでい - [『六月はバラの季節』1973年6月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1973-6) - 六月はバラの季節 日中交歓大会が華々しく開幕した。サラエボでの熱戦のあとをうけ、男女共第一戦は熱戦がくりひろげ - [『AGFに中国参加を』1973年5月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1973-5) - AGFに中国参加を イランのホジャット氏や日本の竹田氏らアジア競技連盟(AGF)首脳が相ついで訪中し、74年9 - [『国際卓球連盟の会長代理』『卓球ニッポンのカタストロフィー』1973年4月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1973-4) - 国際卓球連盟の会長代理 故後藤鉀二会長は、日本の卓球が役員活動の面でも世界の卓球界に大いに貢献できる、と信じて - [『第2回アジア選手権大会 横浜開催決定を祝う』『朝鮮との交流決定におもう』1973年2月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1973-2) - 第2回アジア選手権大会 横浜開催決定を祝う 2月7日、日本卓球協会会長永野重雄氏と横浜市長飛鳥田一雄氏とは、東 - [『クールな中学生』1972年8月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1972-8) - クールな中学生 今年の全国中学生大会(8月8~19日、於中野区体育館)の特徴は、 1.全般的な水準の向上があっ - [『アジア卓球連合の第1回アジア選手権大会』1972年7月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1972-7) - アジア卓球連合の第1回アジア選手権大会 去る72年5月、北京で16カ国のスポンサー・ネーション(創始国)をも - [『後藤路線の継承と発展』1972年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1972-10) - 後藤路線の継承と発展 新会長に永野氏が内定した。11月27日の日本卓球協会臨時評議員会で正式に推戴される。永野 - [『「スポーツと政治の」幻想』1972年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1972-9) - 「スポーツと政治の」幻想 1972年9月の前半、二つの大きなスポーツの竸技会が地球上で行なわれた。一つは、オリ - [『心に二の矢をつがえまい』1972年4月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1972-4) - 心に二の矢をつがえまい 5年ぶりに日本チームのべンチに入った。72年春の日中戦のことである。いろいろな感想があ - [『世界選手権大会の毎年開催を』1972年3月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1972-3) - 世界選手権大会の毎年開催を 卓球はいま、中国の活躍で“もって”いる。“アメリカだけは、決して卓球をメジャースポ - [『中国チームの訪米決定を歓迎する』『学生リーグに新風を期待する』1972年2月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1972-2) - 中国チームの訪米決定を歓迎する 「卓球をやって何になるんだい」という親もいる。私達の住む日本で - [『基本をみなおすために』1972年1月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1972-1) - 基本をみなおすために 卓球選手の正月はその年にその選手が参加するであろう最大の競技会である、とはいうものの、1 - [『1971年をふり返り』『自力更生をおもう』1971年12月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-12) - 1971年をふり返り 自力更生をおもう 話題をふり返る 1971年の卓球界は世界的に話題の多い年でした。 2月 - [『友好第一とAA大会の成功』1971年11月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-11) - 友好第一とAA大会の成功 政治とスポーツ 私の初心者時代によく読んだ本に今孝さんの「卓球」がある。戦争中に書か - [『ハンガリーの躍進とその指導者Z・ベルチック』1971年1月「卓球ジャーナル」発行人からより](https://ogi-museum.com/journal-1971-1) - べルチックで急成長のハンガリー スカンジナビア・オープン選手権大会に参加したハンガリーチームの監督は、ベルチッ - [『中国出場を祝す』『日中対抗の復活』1971年3月卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-3) - 中国出場を祝す 1965年以来、6年振りに中国が世界選手権大会に出場することになりました。男女8名ずつの選手が - [『Dear Sports Friend』1971年4月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-4) - Dear Sports Friend Dear Sports Friend, Welcome to the 3 - [『選手強化の問題点』『選手の迷惑ということ』1971年2月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-2) - 選手強化の問題点 木村氏のコーチ辞任は、卓球界の内外に大きなショックを与えました。「あの木村氏でもダメなのか」 - [『17才の世界チャンピオン』1971年6月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-6) - 17歳の世界チャンピオン 木村、福島、三木氏他の現代日本卓球界がもつ最高レベルの経験と頭脳とによ - [『普及とは低めることであってはならない』1971年7月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-7) - 普及とは低めることであってはならない 「卓球の選手には体操やランニングは不必要だ。」わずか10年か15年くらい - [『地方指導者の中国参観』『首をたてに振る」1971年8月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-8) - 地方指導者の中国参観 多数の地方指導者が中国参観の旅にでかけました。地方の指導者に国際感覚を、中高校の指導者に - [『ITTFの新しい動き』1971年10月 卓球ジャーナル「発行人から」より](https://ogi-museum.com/journal-1971-10) - ITTFの新しい動き 最近の欧州の友人達からの便りによれば、ITTFに一つの新しい傾向というか、動きがでてき - [指導者・卓球理論家・執筆者として活躍の時代(34歳~50代前半まで)](https://ogi-museum.com/coach) - 1965年(昭和40年)34歳 世界選手権リュブリアナ大会 荻村は選手兼監督として出場 新しい指導法・練習法を - [卓球を始めて5年半で日本一になるまで(16歳-21歳)](https://ogi-museum.com/16-21-yearsold) - 1948年(昭和23年)16歳 都立西高等学校に入学 卓球部に入る コルク張りラケットを買い、持ち方を上級生か - [三鷹卓球連盟 創立30周年記念誌(昭和58年)寄稿](https://ogi-museum.com/mitaka) - 三鷹卓球連盟30周年、おめでとうございます この30年間、私の卓球活動は、三鷹卓連の方々をはじめとして、大勢の - [私の中の早稲田卓球](https://ogi-museum.com/waseda-university) - 私の中の早稲田卓球 日本大学卓球部OB 荻村伊智朗 おおよそ30年になろうとする私の卓球活動は、早稲田大学の卓 ## 固定ページ - [Privacy Policy](https://ogi-museum.com/privacy-policy) - プライバシーポリシー 株式会社アイティーエス(以下,「当社」といいます。)は,本ウェブサイト上で提供するサービ - [Company](https://ogi-museum.com/operating-company) - 運営会社(Operating Company) 株式会社アイティーエス ITS三鷹卓球クラブ(Internat - [Contact](https://ogi-museum.com/contact) - 氏名 (Name) メールアドレス (Mail Address) 題名 (Title) メッセージ本文 (Me - [サンプルページ](https://ogi-museum.com/sample-page) - これはサンプルページです。同じ位置に固定され、(多くのテーマでは) サイトナビゲーションメニューに含まれる点が ## 特別ページ - [なんのために卓球をやるか。“好きだから”の限界を踏み越えろ](https://ogi-museum.com/distinations/kyotainews-2) - これからいろいろな練習をやる。なぜそういう練習をやるか、心構えとして知っていないと、帰ってから、自分の学校の同僚なり指導者、あるいは先輩に、「合宿はどうだった」と聞かれても、返事ができない。 「こういう練習をやった」と事実を述べるだけでなく、なぜそういう練習をやったのか、その意味が言えなくては、諸君の経験も生きない。 - [日本卓球が世界で勝つというのは…『日本の千人』より](https://ogi-museum.com/distinations/1993-10-25-2) - この「日本の千人」情報共有化プロジェクトは、93年7月に開催された日本卓球協会加盟団体選手強化責任者会議で満場一致で採択され、10月から発足した。加盟団体に推薦を依頼したところ、多くの推薦があった。規定通り、国際競争力向上委員会からの推薦もおこなった。 「上善如水」という。 ## カテゴリー - [History](https://ogi-museum.com/category/history) - 卓球選手、卓球指導者、卓球理論家、執筆者。さまざまな顔を持ち卓球に人生を捧げた荻村伊智朗の生涯を振り返ります。 - [卓球を始める前(0歳-15歳)](https://ogi-museum.com/category/history/before-starting) - [国際卓球連盟会長時代(54歳-62歳)](https://ogi-museum.com/category/history/president-ittf) - [卓球を始めて5年半で日本一になるまで(16歳-21歳)](https://ogi-museum.com/category/history/no1) - [世界選手権に12年連続出場(21歳-32歳)](https://ogi-museum.com/category/history/worldchampion) - [指導者、卓球理論家、執筆者として活躍の時代(32歳-50代前半)](https://ogi-museum.com/category/history/coach) - [Writing](https://ogi-museum.com/category/writing) - 荻村伊智朗が残した言葉には、卓球への情熱、平和への願い、そして卓球を通じた世界との対話が込められています。 このカテゴリーでは、荻村伊智朗が執筆した書籍や寄稿文を通じて、その信念とメッセージを辿ります。 - [1971年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1971) - [1970年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1970) - [1972年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1972) - [1973年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1973) - [1974年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1974) - [Gallery](https://ogi-museum.com/category/gallery) - 偉大な卓球プレイヤーであり、国際人でもあった荻村伊智朗の歩みを、写真を通してご紹介します。 プレーの瞬間から人との交流まで、多面的な魅力を感じられるでしょう。 - [1930年代](https://ogi-museum.com/category/gallery/1930s) - [1940年代](https://ogi-museum.com/category/gallery/1940s) - [1960年代](https://ogi-museum.com/category/gallery/1960s) - [1950年代](https://ogi-museum.com/category/gallery/1950s) - [1970年代](https://ogi-museum.com/category/gallery/1970年) - [1980年代](https://ogi-museum.com/category/gallery/1980s) - [1975年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1975) - [1976年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1976) - [1978年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1978年) - [1979年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1979年) - [1980年](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing/1980年) - [1981年](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing/1981) - [1994年](https://ogi-museum.com/category/writing/1990s/1994) - [1988年](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing/1988) - [1987年](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing/1987) - [荻村伊智朗 語録-Ogimura Quotations-](https://ogi-museum.com/category/writing/quotations) - 荻村伊智朗が残した言葉を紹介します。 - [1963年](https://ogi-museum.com/category/writing/1960s-writing/1963) - [1982年](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing/1982年) - [1986年](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing/1986年) - [1968年](https://ogi-museum.com/category/writing/1960s-writing/1968年) - [1983年](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing/1983年) - [1965年](https://ogi-museum.com/category/writing/1960s-writing/1965年) - [1977年](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s/1977年) - [1993年](https://ogi-museum.com/category/writing/1990s/1993年) - [1960年代](https://ogi-museum.com/category/writing/1960s-writing) - [1970年代](https://ogi-museum.com/category/writing/1970s) - [1980年代](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing) - [1990年代](https://ogi-museum.com/category/writing/1990s) - [1991年](https://ogi-museum.com/category/writing/1990s/1991年) - [1950年代](https://ogi-museum.com/category/writing/1950s-writing) - [1954年](https://ogi-museum.com/category/writing/1950s-writing/1954) - [1956年](https://ogi-museum.com/category/writing/1950s-writing/1956年) - [1967年](https://ogi-museum.com/category/writing/1960s-writing/1967年) - [1990年代](https://ogi-museum.com/category/gallery/1990年代) - [Tributes](https://ogi-museum.com/category/tributes) - 卓球選手であり、指導者であり、世界を動かしたスポーツ外交官―― 荻村伊智朗と時を共にした人々の言葉は、歴史の中にある彼の姿を、今に伝えてくれます。 - [1985年](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing/1985年) - [1992年](https://ogi-museum.com/category/gallery/1990年代/1992年) - [1990年](https://ogi-museum.com/category/writing/1990s/1990年) - [Record](https://ogi-museum.com/category/record) - 世界選手権をはじめとする国際大会における試合記録は、 荻村伊智朗の歩みと、その時代の卓球の到達点を示す貴重な軌跡です。 このカテゴリーでは、団体戦・シングルス・ダブルスといった各種目の記録を通じて、 荻村伊智朗の競技者としての軌跡と、その実績を辿ります。 - [1984年](https://ogi-museum.com/category/writing/1980s-writing/1984年) ## タグ - [1950s](https://ogi-museum.com/tag/1950s) - [ITTF](https://ogi-museum.com/tag/ittf) - [Writing](https://ogi-museum.com/tag/writing) - [Table Tennis Journal](https://ogi-museum.com/tag/table-tennis-journal) - [History](https://ogi-museum.com/tag/history) - [1971](https://ogi-museum.com/tag/1971) - [1970](https://ogi-museum.com/tag/1970) - [1972](https://ogi-museum.com/tag/1972) - [1973](https://ogi-museum.com/tag/1973) - [1974](https://ogi-museum.com/tag/1974) - [Gallery](https://ogi-museum.com/tag/gallery) - [1930s](https://ogi-museum.com/tag/1930s) - [1940s](https://ogi-museum.com/tag/1940s) - [World Table Tennis Championships](https://ogi-museum.com/tag/world-table-tennis-championships) - [1960s](https://ogi-museum.com/tag/1960s) - [1970s](https://ogi-museum.com/tag/1970s) - [1980s](https://ogi-museum.com/tag/1980s) - [1975](https://ogi-museum.com/tag/1975) - [1976](https://ogi-museum.com/tag/1976) - [1978](https://ogi-museum.com/tag/1978) - [1979](https://ogi-museum.com/tag/1979) - [1980](https://ogi-museum.com/tag/1980) - [1981](https://ogi-museum.com/tag/1981) - [Newspaper](https://ogi-museum.com/tag/newspaper) - [1988](https://ogi-museum.com/tag/1988) - [ACTIVITY REPORT](https://ogi-museum.com/tag/activity-report) - [荻村伊智朗語録](https://ogi-museum.com/tag/荻村伊智朗語録) - [quotations](https://ogi-museum.com/tag/quotations) - [1963](https://ogi-museum.com/tag/1963) - [1982](https://ogi-museum.com/tag/1982) - [青卓会](https://ogi-museum.com/tag/青卓会) - [1986](https://ogi-museum.com/tag/1986) - [1968](https://ogi-museum.com/tag/1968) - [1983](https://ogi-museum.com/tag/1983) - [1965](https://ogi-museum.com/tag/1965) - [日本卓球協会](https://ogi-museum.com/tag/日本卓球協会) - [1977](https://ogi-museum.com/tag/1977) - [強対ニュース](https://ogi-museum.com/tag/強対ニュース) - [1987](https://ogi-museum.com/tag/1987) - [1993](https://ogi-museum.com/tag/1993) - [日中友好卓球研究会](https://ogi-museum.com/tag/日中友好卓球研究会) - [ニューズレター](https://ogi-museum.com/tag/ニューズレター) - [日本の千人](https://ogi-museum.com/tag/日本の千人) - [1994](https://ogi-museum.com/tag/1994) - [1991](https://ogi-museum.com/tag/1991) - [JOC](https://ogi-museum.com/tag/joc) - [1954](https://ogi-museum.com/tag/1954) - [バタフライ トピックス](https://ogi-museum.com/tag/バタフライ-トピックス) - [1955](https://ogi-museum.com/tag/1955) - [1956](https://ogi-museum.com/tag/1956) - [卓球レポート](https://ogi-museum.com/tag/卓球レポート) - [1967](https://ogi-museum.com/tag/1967) - [1990s](https://ogi-museum.com/tag/1990s) - [Tribute](https://ogi-museum.com/tag/tribute) - [1957](https://ogi-museum.com/tag/1957) - [1992](https://ogi-museum.com/tag/1992) - [1990](https://ogi-museum.com/tag/1990) - [1989](https://ogi-museum.com/tag/1989) - [1964](https://ogi-museum.com/tag/1964) - [Record](https://ogi-museum.com/tag/record) - [私のスタンディング・オベーション](https://ogi-museum.com/tag/私のスタンディング・オベーション) - [ニッタク](https://ogi-museum.com/tag/ニッタク) - [Nittaku](https://ogi-museum.com/tag/nittaku)