(一)
私や私の仲間達(ハズィ、ベラック等)が、はっきりと自分たちの行くべき道を認識するに至るまでの、長い茨の道について、たくさんの話をしたいと思う。
ちょうど、我々が15歳位の頃、我々は、ぼつぼつ年上の選手たちを各種大会で喰い始めたのだったが、彼ら年長者たちは、「18歳未満の選手は、一般の種目に出場することはできない」というルールを作ってしまった。
もちろん、今日では事情は全く異なり、今の若い選手たちは、十分な激励や援助を受けているのだが。
(二)
ここに私が大いに反対する事が1つある。それは、一まとめにして行う「クラスコーチング」である。
ある人に対して良い事が、必ずしも他の人に対しても良いとは限らない。
コーチャーは、生徒の才能を探し出し、その人の長所を中心として、彼の卓球を築き上げるようにしてやらねばならない。
「育成」は避けられるべきだ。
初心者にフォアハンドの打法を教えているときに、彼のフォアハンド側にのみ続けて送球してやるやり方は、あまり良い方法とはいえない。
もし左足を前に出して身体を斜めに向けて立つように言われ、ちょうどうまく打てるようなところへ送球してもらったとしたら、誰だって上手にフォアハンドドライヴを打てるに決まっているのだ。
それよりも、どういう風に打つべきか—できれば、どのような場合に打つべきか、をも—教えておいて、然る後、選手が自分自身で、なすべきことを会得するように仕向ける方法の方がずっと良い。
こうする事は、その選手のゲームの重要な“姿”を形成する、集中力と予期力とを改善するだろう。
(三)
私が特に述べたいことがまだ二、三ある。
チョップと、チョップをチョップする事とは、近代卓球においては、最も難しいストロークであり、しかもその2つは、完全に異なるストロークである。
(四)
ダブルスを多く練習しなさい。
ダブルスはシングルスよりも面白いものであり得るのに、多くの国々で、この練習は怠られている。
良いプレイアーは、普通、弱い選手の相手をしたがらないものだが、もしペアーを組んで競技すれば、依然として完全に楽しみながら進歩する機会を与えたり与えられたりする。
(五)
弱者の立場に立って、それに抵抗しながら競技することを恐れてはならない。
そのような時こそ、自分で何かを試みて、それを成し遂げる練習をする時なのだ。
強い相手というものは、こちらの思うようにはさせないものだ、ということを覚えておかねばならない。彼等は、試合の「調子」を自分たちの好きなようにするのだ。
(六)
激しい、また、知的な練習や技術の習得の最高の段階において、選手は、精神的にも肉体的にも絶対的な適応性を持たねばならない。
以上が明敏なコーチャーが、選手にストロークを教えて創り出していくのと同時に、充分に考慮に入れなければならない重要な事項である。
(七)
あなたが、たった一種のストロークしか持っていなくても、あるいはたくさんのストロークを持っているとしても、そんな事は大して重要な問題ではない、と私は常々述べてきた。
重要な事は、あなたの持てる最高を発揮することであり、相手の弱点にあなたの調子を噛み合わせていくことである。
もしあなたが、それをするに足る程賢明であるか、または、良い技術を持っているかしたら、たとえ相手があなたよりも多彩な技術を持っていたとしても、勝つことができるだろう。
経験のためという名目にしろ何にしろ、その場限りの間に合わせ、をやってはならない。
(八)
一般に、若いうちは、あまり考えずに、ほとんど直感だけでプレイしがちなものだが、経験が増すに従って、考えてプレイするようになってくる。といっても、そのこと自体に価値があるかどうか疑わしい場合もあるが。
私がここで一寸した忠告するのを許していただけるとしたら、私はこう言いたい。すなわち、「試合前には、あまりあれやこれやと相手を分析しすぎたり、考えすぎたりしないで、むしろ、試合中に油断なく注意深くしていて、相手の短所を探しなさい」と。
私自身、その試合の定まった計画を持ってコートに歩み寄ったことは、滅多になかった。何故かというと、台がよくはずむ、とか、あまりはずまない、などというような“競技条件”というものは、所期とは異なった方法や策戦を取らねばならなくさせるものだ、ということを、私は経験を通して知っていたからだ。
もう少し付け加えさせていただきたいことは、「テーブルの向こう側でプレイせよ」と、いうことだ。すなわち、相手をくまなく観察して、彼の意図を身のこうと務めるのだ。
ボールのバウンドに注意を集中したり、彼我のグリップを照合して見たりばかりしているよりは、この方がずっと増しなことなのだ。
(九)
卓球を含むあらゆる種類のスポーツにおいて、適応性は重要な役割をする。
競技者は、ほとんど例外なく、最小の注意さえもこれに就いて払わないのが普通である。
肉体的な適応性なくしては、決して精神的な適応性を持つことはできないものだ。
この2つの適応性は車の両輪のようなもので、それなしには、必要なだけの精神集中力を発揮するわけにはいかない。
(十)
よく起こることの中で一番いけない事は、疲れたときに練習をすることだ。
(十一)
適応性はどうやって得るか。
私の個人的な好みによる方法は跳躍、ランニング、歩行、などだ。
他のスポーツ、例えば、水泳、フットボール、テニスなどは、調整という点で役に立つ。
(十二)
もう一つある。
試合と試合の間で、次の出場順番を待ちながら歩きまわってはいけない。
むしろ、腰掛けて、できるだけ気持ちを静めるようにしなければならない。
私自身は、待っている間にぶらぶら歩きまわっているよりは、もう一、二回試合することの方を好んだものだが。
(一三)
要は、ただ単に素晴らしいストロークを持っているだけでは、勝利者にはなれないということだ。
そのためには、混迷した試合の最後まで持ちこたえるだけのスタミナを持ち、肉体的にも精神的にも完全に健康で、適応性を持たねばならない。
Victor Barna Tolks About Coaching 荻村伊智朗 訳
「卓球マンスリー」VOL2 1956年9月号より