1948年(昭和23年)16歳
- 都立西高等学校に入学
- 卓球部に入る
- コルク張りラケットを買い、持ち方を上級生から教わった
- 1か月後にラバーを買い、セメダインでコルクの上に貼って使い始めた
- 他の運動は全部やめ、卓球だけしかしなくなった
- 9月初旬、国体予選に出場したが、1回戦で負けた(相手は武蔵ヶ丘高校の水谷君)
1949年(昭和24年)17歳 高校2年
- 6月、東京都下3市3郡選手権大会・少年の部2位
(※約9カ月でビギナーから強い選手に成長している)
1950年(昭和25)18歳 高校3年
- 西高卓球部主将となる
- 吉祥寺に武蔵野卓球場がオープン
- 経営者の上原功三・久枝夫妻と出会う。ここの常連となる
- 憲法記念東京高校チーム戦優勝(市川・亀田・甲子・荻村)。決勝は小石川高校
- 関東高校選手権大会(横浜市)東京代表 ベスト16
- 東京都下選手権大会・少年の部優勝 1般の部3位
- 八王子の阿木選手にカット打ちを、元満州国チャンピオンの河田選手にショート打ちとフットワークを教わった
- 9月、国体予選決定戦敗退(安藤選手・早稲田高)
- 12月、第1回全国高校選手権ダブルス出場・ベスト16
※後列右から2人目が荻村伊智朗
1951年(昭和26年)19歳
- 都立大学人文学部に入学(卓球を長く続けるつもりはなく、ジャーナリスト志望)
- 3月、吉祥クラブに入会(主宰・天野氏(専大OB))力の卓球を知る
- 6月、スポンジラバーに転向
- 9月、東京卓球連盟秋季新人戦男子シングルス優勝
- 11月、東京都下硬式選手権大会男子シングルス優勝(決勝の相手は阿木選手)
※前列左から3人目が学生時代の荻村伊智朗
1952年(昭和27年)20歳
- 6月、全日本軟式選手権に初出場で初優勝(決勝の相手は中田選手)
- 全日本硬式 東京予選で負けて全日本出場を逃し、泣く(20歳)「笑いを忘れた日」
1953年(昭和28年)21歳
- 日本大学芸術学部映画科に転学
- アジア選手権団体で優勝(優勝の原動力の功績で読売新聞「日本スポーツ賞」受賞)
- 12月、全日本選手権に初出場
男子シングルス(決勝の相手は田中選手)で優勝。男子ダブルス(ペアは山田選手)も優勝し2冠を達成
混合ダブルスは2位(ペアは関澄子選手)(21歳)
※前列右から3人目が荻村伊智朗