立教卓球 我が心の人々 ‐荻村伊智朗

立教卓球 我が心の人々 ‐創部70年を祝す‐

日本卓球協会副会長・国際卓球連盟会長

荻村伊智朗

 

「立教の今泉という選手が、藤井を追いつめたそうだ」という噂が広がった。かの豪腕藤井則和選手がカットで凌いだ、というのである。高校生にとって卓球の神のような攻撃選手が、カットマンに対してカットで防戦に廻り、やっと凌いで勝った。このニュースは、後の私の選手生活に大いに影響した。

1つ、攻撃に徹するプレーヤーも、守りの練習は怠ってはならない。たとえ、1年に1度、そういう場面がくるかこないかわからなくても、だ。

2つ、ロングマンだってカットを使っていいのだ。お蔭様で、世界選手権でのベルチック戦、周蘭孫戦、全日本での甘竹戦、国体での瀬川戦など、何年に1回かカットで窮地を脱することができた。

それにしても、今泉という選手はどんな選手だろう。憧れと好奇心で学生リーグ戦を観戦にいった。瀟酒な、いかにも立教エレガンスなプレーヤーだった。

吉祥クラブのころ、実学対抗の東京卓連の選手に選ばれ、会場の立教体育館へいった。東卓と学連の新人戦優勝者同士の対決となり、山田絢孝氏に勝たせてもらった。一流選手への夢をふくらませた想い出の地である。

都立大の2年のころ、立教へ遊びにいった。実に武骨で実直そうなショートマンがいて、練習を繰り返していた。いま埼玉深谷の押しも押されもしない大監督の吉田先生であった。誰がいなくても、吉田氏は練習場にいた。指導者として成功する素地はこのころからあったのだ。

福田という絢爛たるショートの名手が立教に入った。関東高校選手権で彼は優勝、私は16。オールフォアで廻る私の左の腹の横を、彼のプッシュが何本抜けていったことか。都市対抗関東ブロック予選のジュニアの対戦で、21-11、21-5というみじめな敗戦を喫していた。後に私がオールフォアから徐々に脱皮してゆく過程に、福田君のことがあった。

全日本のコーチから協会の役員への道中で、吉田南さんと長島さんに御指導をいただいた。長島さんには協会経営論、天下国家論、人物論など、たくさんお話をいただいた。

忘れられない立教OBは程塚忠太郎さんである。池袋のビリヤード場で、球を撞くのをやめて、氏の話される撞球王・松山金嶺の逸話に聞きほれた。日本選手権決勝直前に、日本一の玉台造り名人のつくった台が一分だけ狂っている、と指摘した話である。

名人は腹を立て、狂っていなかったらどうする、と訊ねた。即刻キューを折って撞球界から去る、と松山は答えた。調査した結果、隅のネジの締め忘れが発見され、台はピタリとおさまったということである。

程塚さんにはアジア選手権、ストックホルム世界選手権のコーチ・監督をしていただいた。

立教からはよい若手も多数育っている。例えば星野君(※1)。日本的な卓球の発展に貢献できる人物と嘱望している。

※1:星野一朗氏

※1918年創部、立教大学卓球部 創部70年を祝して荻村伊智朗が寄稿した記事

関連記事一覧

  1. 流通ビジネス1

Translation

最近の記事

  1. 1987年ニューデリー大会
  2. 1987年世界選手権ニューデリー
  3. 徐寅生自伝
  4. Marty Reisman

カテゴリー

PAGE TOP