ポジティブ思考について『日本の千人』より1994年 荻村伊智朗

(編注:「日本の千人」第3号より抜粋。「日本の千人」は荻村伊智朗が日本卓球協会 国際競争力向上委員会委員長のときに発行した雑誌)

国際競争力向上委員長 荻村伊智朗

ポジティブ思考について

その時だけではダメ。付け焼き刃、どろ縄の考えは、行動にほころびがでる。

Positive Thinking、積極思考、呼び方は変わっても、おなじことを言っている。

難しいこと、不利なこと、慣れていなくて嫌なこと、が起こったときに、どう上手に対処するか。そのためには、どう考えるか。その考え方をいうのだが、試合の時だけ“うまく”考えようとしてもダメに決まっている。

難しいことを、「この問題を解決すればチャンスだ!」と瞬間に考える。不利な状況でも、「相手の心理状態が変わるはずだ」と先を見越して耐える。慣れていなくても、「みんな同じ条件だ。先に慣れたほうが勝ち。俺が先に慣れてみせる」と決意する。

言葉で言えば簡単だが、普段の生活から「なんでもこい。」と言う気構えをつくりあげることだ。別の言葉で言えば、24時間のポジティブ思考が急場や難所をしのぐ原動力を作る。

もっと言えば、人生のポジティブ思考が大切だ。

例をあげよう。

リレハンメル冬季五輪のフィギュアスケートは、リンクの外のトラブルが大きく報道されたハリウッド映画並みの“金と欲と暴力”事件だ。

結果はどうなるかわからぬが、報道によれば、一方の当事者のケリガンは、「精神医の助けを借りて、わずらわしさを克服した。」と語っている。入賞圏内を目指す日本の佐藤は、「報道陣が多く、わずらわしくて集中が乱される。」と語っている。「わずらわしいのはみんな同じ。気にしない奴が勝ち」と覚えた方が有利になるのに、と、新聞を読んでいて感じた。

 

地球ユースや英国遠征では、粘着シートが使用された選手の反応はまちまちで、優勝した選手や上位入賞した選手は問題にせず、不成績だった選手の一部が不満を報告した。

際立ったのは、英国遠征の選手団。到着してみたら、出発前のイングランド卓球協会の通達とは違い、日英対抗戦は粘着シート不要、クリーブランド・オープンは粘着シート使用とのことだった。「出発前から練習も数日していたし、最後の国際オープン大会での優勝を目指して、日英対抗も粘着シートでやってしまおう。」と選手団は決め、日英対抗では五分五分の成績だったが、クリーブランド・オープンでは男女団体、男女シングルスに圧勝した。ポジティブ思考が強いものが最後に笑うものになることの一例だった。

 

荻村自身も1959年にスポンジ禁止の荒波に出会った。私の7ミリ厚のスポンジは禁止され、田中利明選手や村上輝夫選手、星野展弥選手らの5.5mm厚の裏ソフト。ラバーも、4ミリにしなければならなくなった、私は、「どちらかといえばスポンジは表ソフトが近いな。でも、裏ソフトに挑戦してみようか」と思い、裏ソフトに変わり、帰国後1週間で行われた全日本軟式選手権に10年ぶりで挑戦し、優勝した。10年の期間を置いて連勝した優勝者は私だけだと思う。その年の全日本硬式は、私と星野選手の決勝、次の年は私と渋谷選手の決勝だった。

 

ブルガリアオープンにトルコのイスタンブール経由で遠征した近藤監督の指揮もポジティブ思考の人生経験を活かした成功だった。時差調整が終わり、トルコチームとともにマイクロバスでブルガリアに移動した。トルコの人たちには、悪路の8時間はなんでもない。だが、日本の選手にはこたえる、とみた近藤監督は、機先を制して言った。「こんな経験は、人生でもめったにない。これだけの悪条件で、どれだけ戦えるか、試してみよう。」

その気になった選手たちは、男女団体を制覇した。個人戦では早々と姿を消した日本選手たちが、団体では優勝したのである。

欧州は小さな大陸だ。選手たちは車で移動して切磋琢磨の機会を増やす。だから、欧州が機会が多くて有利だといわれている。だが、そういう機会を活用しようとすれば、良い道・悪い道のことなど、問わないタフさが必要なのだ。

マイケルジョーダン選手の野球入り

全米プロバスケットのスーパースター、マイケル・ジョーダン選手がプロ野球に転向した。年収10億円の境遇を捨てて、全盛期にである。「え!ジョーダンじゃないか?」とファンは思ったらしい。でも、私にはわかる気がした。

というのは、私も世界チャンピオンになった年、マラソンに挑戦しようか、と思ったことがあるからだ。当時の世界最高は2時間20分前後。私のロードでの脚力は10キロを33分前後。20キロまでは同じスピードでも走れた。卓球を捨てれば、やれる、と思った。

どちらも賞金があったわけではない。「ほかのことでも自分の可能性はどこまであるか試したい」、という気持ちになるほど、自分を積極的な意味で恃む気持ちになるときが若者にはあるのではないか。私はそのころ、毎日のロードワークが7~ら8キロ、ウサギ跳びが1キロ、縄跳びが2000回、ダッシュ20本、など、1日に2時間ぐらいの体力トレーニングをおこなっていた。

私は結局、卓球にこだわった。でも、私が特殊だったわけではない。それから10年も後、日本選手の合宿では、ゴルフ場のアップ&ダウンの20キロを男子、18キロを女子、そしてその他の体力トレーニングをプラスして、なおかつ8時間の技術練習時間を合宿で行った。それでも、選手の体力や体調は良かった。急にそんなに体力がつくわけではない。どの選手も、2~ら3年かかってその域に達したのだ。達してみれば、どうってことはないのだ。

駅伝に出たり、フルマラソンに出たりする卓球選手たちがでたのも当然だった。

日本の千人第3号表紙

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