『何のために卓球をやるか?』荻村伊智朗-卓球レポート1965年4月号より

第28回世界卓球選手権の展望 男子は日・中の決戦か?荻村伊智朗監督にきく

何のために卓球をやるか?人間文化向上のため

ーーーもう時間もないし、最後にですね。最近ある人からこんな話をもらったんです。「新聞によると、ことしの選手団は、本当によく努力されているようだ。いままでは、特にプラハのときは、やれるだけのことをやって、ベストをつくして大会にのぞんだとはどうも思えなかった。だから、男子が中国に敗れて帰ってきても、心から”ご苦労さん”とは、どうしてもいえなかった。だがことしはちがう。涙ぐましい努力の結果、男女とも世界制覇が期待できるし、不幸にして、優勝できなくても、心から”ご苦労さん”といって選手団を迎えることができると思う」と…。

 

荻村:”ご苦労さん”といっていただくのはありがたいが、僕の監督としての考えは、卓球を何のためにやるかというと、いろいろ考え方があると思う。国のためとか、自分の属するグループのためとか。これは許される最小範囲だと思うんだな。やっぱり、このせまい地球上でね、人間同士が大きな社会を作ってやってるんだから、人間の文化の向上に少しでも小さな光をつけ加えるために卓球をやるーーということになるんじゃないかと思うがね、僕は。そういう意味で、日本の選手であろうと中国、スウェーデンの選手であろうと、非常に充実したものをもっていって、世界のヒノキ舞台で立派な試合をやって人間の文化の一端に少しずつ光を増してゆく、といううことができれば、最高だと思うんだね。

▶自分達だけのためという考えではとてもこれだけの猛訓練に耐えられない

 

僕は勝っても負けても、そういう気持でやってきた。いままでも、自分の名誉のためにやってきたという気持はない。そういうこと(人間の文化の向上のために……)を意識してもの卓球生活であったし、そうしていかないと、ますます地球はせまくなってくる。スポーツ界全体がいろいろな意味で曲り角にきていると思うが、そういう中で、将来の方向を見失わないことは大切じゃないかと思う。

あまりにも、微視的な考え方はとりたくない。選手達も、自分達だけのためだという考えでは、とてもこれだけの激しい訓練には耐えられないと思う。やっぱり、自分達の苦闘というものが、ほんの小さいながらも人間の文化に少しでも輝きを増させる。そういう歴史の中に生きているんだという考えがあれば、かなりの苦しさにも耐えていけると思うんだな。”祖国のため”もいいが、それではヨソ(他国)を否定することになる。それで人間が共存共栄していけるだろうか。矛盾があるんじゃないか。と僕は思う。

 

 編集部注:中国の徐寅生選手は“祖国の栄誉のために卓球をやる”と語っている。18ページ参照。

 

ーーーそうしますと、人間文化の向上に光をつけ加える、という点では、芸術も卓球も同じということですね。

荻村:そりゃもう、絶対同じです。ただ。合目的的であるべきかどうかは、まだまだ論争の余地があるとは思うんだ。少なくとも、いまの時点で、選手と一緒に世界選手権に行ってくる練習とか指導の考え方には、そういうものがあるということですね。

 

1965年4月卓球レポート表紙

1965年4月卓球レポート1

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1965年4月卓球レポート3

※「卓球レポート」1965年4月号より

※協力:株式会社タマス(バラフライ/卓球レポート)

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