『今後の世界選手権・オリンピックで勝つのは、どんな選手か?また、そういう選手を育てるのは、どんなコーチか?』卓球ジャーナル1983年夏号 荻村伊智朗

特集・今後の世界選手権・オリンピックで勝つのは、どんな選手か?また、そういう選手を育てるのは、どんなコーチか?

出席者:荻村伊智朗、藤井基男、野平孝雄、河原智

(前略)

 

藤井:独創性のある者が部活動のなかで殺されてるじゃないか。また独創的なプレイヤーでは現実にいまの中学高校でなかなか勝てないじゃないか――という2つの問題が野平君から出されたわけですけれども、荻村さん、いかがですか?

荻村:いまね。自分が高校生とか大学生であって、どっか卓球部を選ぶということになった場合に、自分が名門校へ行くだろうか――と考えてみると、なかなか迷うと思うんですね。

僕は都立大から日大へ転校したわけですけれども、日大を選択したのは、一番自分の個性を発揮できそうだ、という理由もあったんですね。その人によると思いますけどもね。

富田さん(芳雄。54、55、56年世界男子団体優勝、専修大出)なんかの場合をみてみても、この人は勝負強さでは僕にヒケをとらないというか、世界チャンピオンに何回かなってもおかしくなかった人。よく専修でやれたもんだと思うけども、この人も専修のいろんなしがらみの中でぶつかりながら、それを変えて、それから自分の個性をなおかつ発揮できるような強いものがあったと思うんですね。

先輩も最終的にはそれを認めたからこそ彼は伸びたんであって、ね。やっぱり、それだけの柔軟性がかつての専修大学にもあったんじゃないかと思うし、かつての日本大学にもあったんじゃないかと思うわけですね。だから、僕は基礎をつくる時代に指導者がいなかったということは、いま非常に感謝しているわけですね。各地へ講演に行ったりして、「いい時代だったと思う」と言ってるんだよね。

事実、指導者がいたときには、その人のほうのをマネして、ちっとも伸びなかったんですよ。それに見はなされてから伸びだした。そういうこともありましてね。しかし時代が違うんで、今や指導者のいない“いいチーム”を探そうとしても無理なんですね。だから、皆さんが言われるように、指導者側に非常に要求される責任が大きい、ということが言えると思う。

その中の最大の要求というのは、“選手を作る”という意識を指導者が否定するというか、捨てることが大切じゃないか。

 

「選手を作る」という意識を捨てよう。選手は粘土じゃない。

 

藤井:よく言いますよね、こういう選手を作りたい、とか、作った、とか

荻村:選手を作ると言う意識。ということは、指導者の創造力のワク以上には、その選手は伸びないということなんですね。つまり、選手は素材である、と。粘土とか原木と同じ素材であって、その素材を通じて作品ができるわけで、作品は芸術家であるコーチの能力までしか伸びないということになる。そのコーチが未熟な時代には、作品は未熟なものになってしまう。ところが素材としては、もっとすばらしいものがあるという場合は、あり得る。

コーチは原則として、選手を作ると言う意識を否定するところから、独創的な選手が生まれるんじゃないだろうか。“選手を作る”という言葉を使わなくなるということは、意識を変革する第一歩じゃないだろうか。ですから、「私はこういう選手を作った、今度はこういう選手を作りたい」。こういうコーチが名門校のコーチであり、権威者であり続ける間は、独創的な超一流の選手は育ちにくい環境だと言ったほうがいいんじゃないかな、と思うんですけど、どうですか?

代表級の選手を育てる能力のある人(コーチ)たちが、“選手を作る”という意識を、もう一つ踏み越えるということが、一番の急務ではないか。代表級の選手を育てる能力やキャリア、環境にない人が、いくら良識を持ったところで、その人たちのところには素材が来ないんだから。

日本代表が出る20チームなり、50チームなりを掌握してるメインの中核的なコーチたちが、“選手を作る”という意識を捨てるということは、一つの中国にチャレンジするポイントじゃないかな。そう思う。

野平:なるほど。

荻村:いままで超一流になった人たち、日本を代表するような選手になった人たちーー百人かそこらいますよね。そういう人たちに聞いてみたら、「オレは作られた」と返事する人が何%いるだろうか。僕は0%だと思う。自分はあるコーチによって作られた、と言う意識をほんとに持っている人がその人たちの中にいたとしたら、極めて少ないパーセンテージじゃないか。もちろん、コーチがいたということは、あると思うんです。ぼくらにも、大学時代は矢尾板(現東京卓球連盟会長)というコーチがいたし、世界選手権に出るようになってから長谷川(喜代太郎)という監督もいたけども、でも、作られた意識と言う作られたと言う意識は、毛のさきほども思っていない。

藤井:ぼくは世界選手権代表の練習相手として、ボンベイ大会以来の合宿にずいぶん参加させてもらいましたけど、日本の黄金時代、例えばロンドン大会(54年)に例を取りますと、荻村さんでも富田さんでも、選手が自分で自分の練習計画を作ってましたね。ですから、荻村さんと富田さんとでは、練習内容が当然違う。違うのが当たり前だった。これほど個性的な話はないと思うんですね。

 

面倒見(マネージメント)がよくて“名監督”もあれば、指導力(コーチング)がすぐれて“名監督”もあるーーだがそろそろ分化しよう。中国や西武球団のように。

 

荻村:合宿の計画も自分らでやって、藤井さんがぜひ来てもらいたい、じゃあ自分たちで金を出して、(練習相手に)よぼうじゃないか。こういうことになるわけだね。

野平:なるほど。今じゃ考えられないことですよ。今からそういうことを求めても、無理でしょう。そうじゃないですか。

荻村:違うんだよ。だから、やはり選手の側だけにそういうことを求めずに、それを掌握しているコーチ側の意識が変革することを期待することが、選手側の自主性も伸ばすんだ、ということですよ。そこでコーチは力量を発揮してることになる。選手を作る意識を捨てても、それが逆にもう少し大きな意味で力量を発揮することになる。恐れる必要はないと思う。

野平:なるほど。中学・高校・大学も含めて、選手が、実は自分はこの人に見てもらいたいんだ、と言ったときに、「そうか、じゃ東京へ行ってその人に見てもらってこい」とか、「じゃおまえ転校すりゃいいじゃないか」というような指導者が出ればいいですけども、現実には、かなり抵抗がある。よその指導者に見てもらいに自分のとこの選手を出すことに、かなり抵抗がある。で、ワクの中で指導されていることが多いんじゃないか。

荻村:そういうワクに入る原因というのは、いい指導を受けられるということーー例えば、熊商とか東山に行けばいい指導が受けられるということーーと、それに付随していい学校に入れるとか、いい会社に入れるというある種の実利的なことが絡み合っていると思うんですね。特に実業団とか大学関係では、マネージメントとコーチングを分業化してたほうがいいんじゃないかと、ぼくは思う。

いい監督というのは、マネージメントの非常にいい監督である場合も多いんだね。いわゆる、平たく言えば、面倒見がいい。具体的に言えば、就職口の世話が非常にいい。あるいは生活とか、いろんな面倒も見てあげる。個人的に親身になって相談に乗ってあげる。それから、進学先もなかなか上手だ……等々のマネージメントの能力ね。

これはアメリカの大学スポーツなんかの場合は、はっきり分けている。コーチはプロなんだ。だからこそ、日本と同じような社会制度の中でオリンピックに金メダルを取る選手が続々と出てくるでしょ。

アメリカと日本とでは、どこが違うだろうか。日本は大体ね、マネージメントとコーチングを同じ人がやっている。そのパーセンテージが人によって違う。マネージメント能力が非常にすぐれているために、名コーチ・名監督であるという人もいるし、コーチング能力が非常にすぐれているために名監督であるという人もいるだけど、そろそろ分化しててもいいんじゃないか

藤井:なるほど。

 

コーチと選手の関係は、“上下関係”ではなく“協力関係”だ。

 

荻村:だから、マネージャーとしての力量が非常にすぐれている人が、無理して技術の監督という地位を保たなければならないような企業側の理解度にも問題がある。企業側ももっと理解してもらって、マネージメントのための人と、それから技術指導のための現場の人と、というふうに分けてくれると、いま以上に持てる素材を生かせるようになるんじゃないか。

大学のOB会も、マネージャーというのは学生がやる仕事だ、と思わないで、OBの中からマネージャーも派遣するし、監督・コーチも派遣するというふうに分けてやったら、すごく学生は助かるんじゃないか?

中国はまさにそうしている。プロ野球なんか、みんなそういうシステムになってるはずなんだ。それを分けた西武なんかが、うんと成功してるわけですよ。全てどんぶり勘定で面倒をみるというような、大親分的なコーチではだんだん勝てなくなってきてるんですね。

そういうふうに分けてくれば、いろんなしがらみがあるんで主張しようと思っても主張できない、ということもなくなるんじゃないか。進学とか就職の面倒を見てもらう部分は、しっかりとマネージャーに面倒を見てもらう。コーチの方は、とことん技術的な問題で話し合う、そしてほんとにその選手が伸びることをそのコーチが願っているのであれば、よし、じゃ、あそこへ一緒に行って勉強してこようじゃないか、というようなことにも当然なるんじゃないか。

そのへんがオールマイティーだね、どういう弊害が起こるかというと、どうしてもコーチなり監督が“上の関係”にあって、選手が“下の関係”にある。上位下達というか、上司でコーチだ、と。そのまんま言うことを聞かなきゃならないんだ、というふうになっていっちゃうのは、選手の為にもコワいな、と思う。だから、上下関係でなくて、あくまで協力関係だと思うんだよね、コーチと選手の間というのは。それが、先生と生徒というと、やっぱり上下関係がある。このへんも、選手の自我を殺さざるを得ない一つの原因になると思うんですよ。

(後略)

卓球ジャーナル1983年夏

卓球ジャーナル1983年夏2

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