『世界チャンピオンになるような人はクリエイティブなんですね』卓球ジャーナル1987年冬号 荻村伊智朗

わかる人の批評はコワいー。「日本の卓球はこうだ」と軽々しくは言うまい。荻村と田中の卓球が違うように千差万別なんだから。

(前略)

日本の卓球という1つの定型句というか何か実体があるような、形がみんなの目に見えてくるようなイメージをもった言葉というのがあると思います。

私と田中利明(昭和30・32年世界チャンピオン)が映画をつくりました。その題は『日本の卓球』と言います。

これは、日大の映画学科が毎日映画社と一緒に作り、荘則棟(昭和36・38・4世界チャンピオン)の卓球にも重大な影響を与えたと彼自身も言っていますが、いろんな意味で非常に良い映画だったと思います。2人の世界チャンピオンがやったわけですから。だけども、価値ある批評がありまして、これは、日本の卓球という題を使わないほうがいい、例えば、荻村、田中の卓球とか、日大の卓球とかいうようにしたほうがフェアーだ、なぜならば、日本にはもっとたくさんの型もあるし、スタイルもある。これによって日本の卓球のイメージが固定することを恐れる、と。これは価値ある批評だと思います。

日本の卓球という、1つの定まったイメージをもつ言葉を使う場合に、その言葉に対する恐れをもたなければいけないということを言っています。素晴らしい言葉だと思います。

ただし、内容は非常に好評で価値のある映画であるということは、誰も否定できないけれど、また、それに対するそういう批評も価値のあるものであると思います。

ですから、今、我々が日本の卓球という1つの固まったイメージの言葉を使う場合に、一体それは今孝(戦前の日本チャンピオン)の卓球なのか。藤井則和(昭和21・22・23・24・26年日本チャンピオン)の卓球なのか。佐藤博治(昭和27年世界チャンピオン)の卓球なのか。林忠明(昭和26年日本チャンピオン)の卓球なのか、荻村の卓球なのか。田中の卓球なのか。江口(昭和32世界チャンピオン)の卓球なのか、松崎(昭和34世界チャンピオン)の卓球なのか、山中(昭和42世界団体優勝)の卓球なのか、森沢(昭和42世界チャンピオン)の卓球なのかと考えてみただけでも、千差万別なんですね。

そういう上に、世界チャンピオンになるような人は、全てクリエイティブ(創造的、独創的)なんですね。これは、ゴッホでもその時代クリエイティブだし、ピカソでもその時代クリエイティブであるのであって、初めてできたという点が偉大であるんです。

そういう意味で私が今、名前を挙げたような人たちは偉大なんです。ほかにも、まだまだ偉大だという人はいますが、何が偉大かと言えばクリエイティブだからです。

これは、中国卓球でもそうです。荘則棟の卓球は偉大です。それでは、そのコピーをしたら偉大かといえば、偉大ではありません。なぜなら、クリエイティブでないからです。これは、今年の元旦番組か何かでNHKの磯村さんが、イタリアの経済が非常なカムバックをしている。なぜかということを、イタリアの代表的なデザイナーで、これは、日本の車のあと2、3年後のモデルをすでに開発しているデザイナーですが、その人に聞いたら、何がわれわれの活躍かというと、それはクリエイティブなことだということを言ったわけです。

ですから、何が日本の卓球を作ったかということは、ただ1つクリエイティブであって、しかもその時代にあってクリエイティブだったことです。今の時代にあうあわないなんてことは、批評しても意味ないことなんです。今の時代は、今の時代に合わせてクリエイティブな人が勝つんだし、次の時代は、次の時代に合わせてクリエイティブな人が勝つんです。

共通な価値というのは、クリエイティブ、創造的でしかもかけはなれて独創的で非常な努力をしたということで、これが強いてあげれば日本の卓球なんです。

「何が偉大かといえば、クリエイティブ(創造的、独創的)だからです。世界チャンピオンになるような人は、クリエイティブなんですね」荻村

(後略)

荻村伊智朗

卓球ジャーナル1987年冬号より

卓球ジャーナル1987冬表紙

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