『心に二の矢をつがえまい』1972年4月 卓球ジャーナル「発行人から」より

心に二の矢をつがえまい

5年ぶりに日本チームのべンチに入った。72年春の日中戦のことである。いろいろな感想があったが、これもその一つだった。

この日中戦は日本側の強い希望で早い時期に実現したのだそうだが、73年の世界選手権大会の前哨戦という意味でも大いに注目された。早いもので、サラエボまではもう一年を切ってしまった。

世界選手権大会といえば、私は53年の全日本選手権大会のランク決定戦を思い出さずにはいられない。54年のロンドン大会(初出場)を4カ月後に控え、代表選手を決める大事な大会であった。

52年には全日本軟式に初出場で優勝、53年の国体では単複で全勝優勝、秋のアジア選手権大会のための3回の合宿での通算成績一位、秋の学生リーグで単複10戦全勝、アジア選手戦ではただ一人マイバンホア(ベトナム・シングルス優勝のカットの名手)を破って個人ランク二位、という成績からして、私はかなりの良いシード割りを期待していた。ところがランク決定で私は51年ベスト4の藤井基男君(当時岩手大)に当てられていたのだ。8ミリスポンジのラケットを使っていた私のカット打ちは選考する者の側からみれば不安がともなっていたのであろう。

私は組み合せをきいて知った瞬間に、この組み合せの意図するところをはっきりと感じた。これで負ければ絶対に世界選手権には出場できない、ということである。当時の選手選考は新人にとって誠にきびしく、その大会の二位の田中利明君は落とされたし、翌年も、二位の角田啓輔君が落とされている。

私は短期間ではあったが、その後数日の練習は対藤井一本にしぼり、他の選手のことは一切考えなかった。結果はレシーブと第三球からスマッシュしていく奇襲作戦で“分がない”と自分でも思っていた大難関を突破し、勢いにのって単複混合3種目共決勝に進出し、うち二種目に優勝して世界選手権への代表資格を得ることができた。

藤井戦での“この一番”にすべてをかけた捨て身の心境は、世界選手権まで続き、われながら思い切りのよい勝負に終始した。捨て身の強さは“この一手しかない”という明快な決断の強さであり、退くことを知らない背水の陣の強さである。

徒然草だかに「此の一矢に定むべしと思へ」と、二の矢をもって的に向かう心をいましめた言葉があったように思う。日本の代表になったり、学校の代表になったりして試合に出る人は、「自分が出場するために多くの人のチャンスをつぶしている」ことを考えなければならない、と思う。

試合をしたあとで、今後こそは、と工夫をこらすのはよい。しかしながら、試合をする前から、「一回ぐらいは悪くても……」と思うようでは、心に二の矢をつがえたことになりはしないか。

世界選手権にせよ、インターハイにせよ、本番は一発勝負である。「もう一回やらしてくれ」はない。一発勝負で実力を発揮できないものは、普段の生活に甘さがあるものである。それにしても勝負というものは、それに臨む心構えで戦う前に大かた決まってしまっているようだ。

1972年4月

荻村伊智朗

1972.5.心に二の矢をつがえまい

 

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