アジア卓球連合の第1回アジア選手権大会
去る72年5月、北京で16カ国のスポンサー・ネーション(創始国)をもって発足したアジア卓球連合(以下ATTUと略す)の第1回選手権大会がいよいよ9月2日から13日まで、北京市の首都体育館で開かれる。
会場になる首都体育館はジャーナル70年12月号でも紹介された18,000人を収容する巨大なものだが、おそらく連日満員の観衆を集めるだろう。現在きまっているだけで26カ国の参加が確定しているが、これだけでもアジアの歴史上かつてない多くの国と協会が参加する単独種目では最大のスポーツ大会になることはまちがいない。
1952年以来、アジアでの卓球行事には中国が参加できない事態がつづき、私たちも一時はそれがあたり前のような錯覚にとらわれたことがあった。しかし、この事態がまちがいであることに気づいた多くの人達の努力によってアジアの卓球事情は変わり、いまや日本と中国が中心となり、名実共にアジアの卓球選手権を争う最初の大会が開かれようとしている。
私たちはこれを祝福して参加するだけにとどまらず、来年のサラエボにおいてのITTF総会でアジア連合がアジア地域を数においても質においても真に代表する唯一の組織であるという正当性がみとめられ、もっと多くのアジアの地域のすべての卓球人が一堂に会することができる事態が到来するように努力を重ねなければならない。
0B選手団の訪中
中国は選手の交代期に入っている。ヤングパワーの躍進が期待されているが、文化大革命のブランクがまだ技術的には克服されていない。完全にヤングパワーの時代になったヨーロッパの男子陣にくらべ、一歩のおくれを意識しないわけにはいかない。
という事情は、実は日本とても同じだ。卓球ニッポンも名古屋大会では1952年に初めて参加して以来、史上最低の一種目優勝という記録にとどまった。「よし、俺がやる」という火の玉のような新人がいない。みんなが、これは、と思うというある“大型新人”に、「荻村さんは練習をうんとやったそうですが“息抜き”はどうしたんですか」ときかれたことがある。
「息抜きねえ、そういえば卓球が息抜きだったんだな」と私は答えたが、急に腹の力が抜けた感じがして、もうその人とそのときはそれ以上話を続ける気持ちを失ってしまった。
しかし、結局、またその人に向って何回も話しかけるハメになっている。先輩とはそうしたものであろう。
このたび、中国が日本の卓球を背負って活躍した0B達を招待したのは、そうした0B気質をいかして日本の卓球を盛り上げ、ひいてはアジアの卓球を盛り上げてゆくことに役立つ機会を提供できたらば幸い、という意向からのようだ。
訪中する0Bの人達や日卓協執行部も、そうした中国の好意を喜んで受ける一方、中国の卓球界のためにも自分達の経験を生かしたいとしている。
中国のコーチや選手達とのディスカッションは、「李景光君の裏ソフトラス一転向は是か非か」というような極めて身近な問題に及ぶこともあろう。そして、この貴重な経験を一人でも多くの卓球愛好者の共有財産にしよう、という意気ごみで、帰国次第、経験交流の報告書をモノにするのだ、とハリ切っておられる。
木村団長、松崎副団長以下の0B団の活躍を選手団と同じように熱心に期待したい。
1972年7月
荻村伊智朗
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