後藤路線の継承と発展
新会長に永野氏が内定した。11月27日の日本卓球協会臨時評議員会で正式に推戴される。永野新会長は日本卓球全盛期の1950年代に日本卓球協会の後援会会長をつとめられた方で、卓球には縁の薄い方ではない。
私達は先ず、後藤会長が急に往かれてから空白であった会長の座に日本の実力者の一人である水野氏を迎え得たことを読者と共に喜びたい。
「大物会長」を、と努力されていた川上会長代理以下、五副会長、矢尾板理事長の御労苦に感謝し、念願のかなったことにお慶びを申し上げる。
大物会長に対する卓球協会ボードの人達の期待はなぜ大きかったのか、理由はいくつかあると思われる。
一 後藤会長という“大物”が卓球の活動範囲を大きく拡げてしまい、その後藤路線を引き継ぐには政治的にも力のある“大物”が望ましい。
二 卓球は最近20年間に大いに脚光を浴びてきたとはいえ、まだマイナースポーツ視されている。社会的に名声のある人を会長にいただくことは、卓球のイメージアップにつながる。
三 卓球協会の予算規模が拡大し、1950年代の3倍以上の通常予算の規模になっている。1974年春には日本で1億5千万円の経費が予想される第2回アジア選手権大会を開催しなければならない。経済界にも顔がきき、通常予算面でも、臨時プロジェクト予算面でも募金能力のある会長が望ましい。
こうした卓球協会幹部の心配や希望やらをよそに、週刊文春は「金めあての卓球協会?」「台湾派から中国派へヘンシーン?」などひやかし記事を書いた。
これは誤解に基く記事である。
私達がなぜ永野さんのような大物を、卓球協会の会長に迎えることを希望するには、次のような正当な理由がある。
卓球協会は後藤会長の死去後、72年春最高議決機関である評議員会において、「後藤路線を守る」ことを申し合わせた。
矢尾板理事長は就任に当って「評議員会の決定を守ること」及「民主的な運営をすること」を公開の席における選挙直後に表明した。その後の卓球協会は、“ピンポン外交”で世界の緊張緩和に貢献し「卓球の声価を高からしめた」後藤路線をその後も発展的に引きつぎ、田中訪中を目前に控えた人民日報(9月号)により「歴史的壮挙であり、国際体育組織の新気象」であると讃えられたアジア卓球連合を中国・朝鮮と三国共同で発起し、アジアの16の国と地域をもって創始し、第一回の選手権大会を成功させた。
国際卓連の中にあっても、日本は中国と連携し、後藤路線をピンポン外交の精神に沿って発展させている。そして日本卓球協会の方式は、日中交流を望む他競技の団体が必ず採用する方式になり、他の競技の団体が今後の国際組織の問題に取り組む場合に、必ず学び、必ず採用する方式になろうとしている。
卓球は、日本スポーツ界や体協の中において、理事にも選ばれない半人前のマイナースポーツから、一人前のスポーツへと正しい位置づけをされる方向へ進んでいるし、国際体育組織の中でも“オリンピックの日蔭の花”、から、世界中の100もの国と地域の協会の代表を単独で集めるビッグスポーツと確実な足どりで発展をとげている。
しかし、私達の力はまだ十分でない。
アジアの分野に限ってみても、台湾省の問題は中国の内政問題として定着されたとはいえ、朝鮮半島の問題、インドシナ半島の問題、アラブとイスラエルの問題は、決して小さな力で解決できる問題ではない。「後藤路線」という正しい方針が決定されているとはいえ、また、「民主的決議はいかなるワンマンの意見よりも大切」という正しい方針が打ち出されているとはいえ、それを発展させていくためには、私達卓球人は永野新会長のような、強い政治力の持主の強力な支援を必要としているのである。
金に困っての新会長さがしではないことは、春秋の日中対抗における多額の剰余金と、それを足場にしたジュニア選手団の訪中、アジア選手権大会への参加、学生選手団の訪中などの多彩な行事が説明しているし、社会的名声のステータスシンボルでもないことは、スポーツ面よりも社会面、政治面に現われる卓球の文字の活躍ぶりが説明している。
卓球界の当面の問題、当面の期待は新会長の強力な政治力による後藤路の継承、発展であり、その結果としての日本と国際での卓球の飛躍的な振興である。
1972年10月
荻村伊智朗
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