「スポーツと政治の」幻想
1972年9月の前半、二つの大きなスポーツの竸技会が地球上で行なわれた。一つは、オリンピック大会、一つは第1回アジア卓球選手権大会であった。
オリンピック大会では、アラブゲリラがイスラエルの選手村を襲い、結果的には10数人のアラブ人とイスラエル人が死んだ。
イスラエルを国として認めることを拒否するアラブの人達の運動は、今後も高まっていくことだろう。
人種差別政策の上に成り立つローデシアの現政府の組織した選手団を、オリンピック委員会が締めださざるを得なくなったニュースも、アラブゲリラの陰にかくれた感じがあるが、大きなできごとだった。
イスラエルを認めるということも、ローデシアを参加させるということも、それに反対することが政治的行動であるのと全く同じていどで、結果的には政治的行動である。
オリンピックの主催者達は、この面について知らぬふりをして通そうとしたために、数々の難問に直面し、多くのスポーツマンに苦しい思いをさせることになってしまった。
同じ頃、バレーボールのIFはミュンヘンで総会を開いて、「選手は政治のことなど知らないでいい」という類の言葉を私達の現役時代にはよく耳にした。いまでもそうした言葉は若い選手にむかって言われることが多いのだろうか。
私は、こういう種類の言葉には反対だ。選手である前に私達はまず一人の人間である。人間の社会には政治がつきものであることはだれも疑うことのできない歴史的事実ではないか。私はスポーツ選手が“運動馬鹿”になった方がよいとは思わない。メダルだけを追い求める“メダルアニマル”になった方がよいとも思わない。
私達がスポーツの試合場で感動するのは、すぐれた技術を支える豊かな人間性を見たときである。技術的にはいくらすぐれたチャンピオンであっても、いくらすぐれた監督であっても、その人のおかれた歴史状況の中での役割りを知らぬ言動があれば、どんなすぐれたプレイを披露した直後であっても、人々はがっかりしてしまうにちがいない。
現代の運動選手の場合、政治について知り、よく考えること、特に、「スポーツと政治」について、よく知り、よく考えることは大切である。行動は慎重でなければならず、軽卒であってはならないが、特に日本を代表するクラスの選手の場合は、まずよく知り、よく考えること、と私はいいたい。
まず知らなければならないことは、「スポーツと政治は関係ない」という言葉は、使う人が意識するしないにかかわらず、“たいへん政治的な”発言だということだ。
私たちは、“「スポーツと政治は関係ない」といって通せる”というような幻想を抱いてはならず、現実と歴史の流れを見きわめ対処してゆかねばならない。
1972年9月
荻村伊智朗
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