『政治に先立つスポーツ外交』今井良春「卓球人」創刊号 特集「偲・荻村伊智朗」より

卓球人表紙

※「卓球人」創刊号 特集「偲・荻村伊智朗」より。1999年9月30日発行

政治に先立つスポーツ外交 今井良春

荻村伊智朗氏との出会いは52年の天理市の全日本卓球選手権大会に始まるが、親しく声を掛けていただくようになったのは、65年リュブリアナの世界選手権大会で荻村氏が日本のヘッドコーチをなさって、京都の精華高校と東山高校で強化合宿が行われたころからである。

この合宿ではカット打ち千本ラリーが行われた有名な合宿である。確かアルセアとヨハンソンも参加していた。69年の秋、スウェーデンのポパーソンとベンクソンの二人を連れて荻村氏は東山に来られた。「十日間東山の選手と練習をやらせて欲しい。それが終わったら大阪中央体育館で開かれている全日本学生卓球選手権の見学に連れて行って欲しい。」ということだった。

30年前の話で、私共は勿論外国選手との交流もなく思案したが、宿泊は下宿生と同居で良い。食事も一切東山の選手と同じで良いということであったので気軽に引き受けたような訳であった。この年の東山はインターハイと国体で優勝したチームで、村上(早稲田)、大岡(現仙台育英監督)などがいて、成績は五分五分の勝負だった。

東京でも随分厳しい練習をやってきていたのか、16歳のベンクソンは両膝と肩を痛めていた。練習の方法について荻村氏に連絡を入れようとしたところ、彼は固く丁寧に断り、歯を食いしばりながらも、黙々と練習したことが私の脳裏にしっかり焼き付いている。

「泣き言を言うな折角の機会である」

と厳しく荻村氏が指導されたことについて、ベンクソンも強い意志で答えたのに相違ない。2年後の71年名古屋の世界大会で見事男子シングルスで優勝したことは皆さんご存じのことである。

荻村氏の厳しい指導の賜以外にない。

85年イエテボリの世界大会で久しぶりにベンクソンに逢った。(私は日本のジュニア参観団の団長として参加した。)日本式で深々とお辞儀をして再会を喜んでくれた。一緒の中国の選手も吃驚していた。日本式のマナーときびきびした行動はその後も失われていなかった。

75年オイルショックが始まって、まもなくサウジアラビアのジュニアチームが東山にやってきた。王族の偉い人が団長でオイルマネーを遊興にばらまく豪華な選手団だった。彼らを日本に迎え入れたのはもちろん荻村伊智朗氏であった。

1週間ほどの練習だったが、彼らは練習にはあまり身が入らなかったので、付き添いコーチの古川氏をてこずらせたが、最後には練習計画をノートに取らせるところまでは漕ぎつけた。その後、サウジアラビアの卓球はアラブ一の実力にまで伸し上がったこともご存知のことである。

82年韓国では「日本の教科書問題」で揺れ動いた年だった。

その騒動の真っ只中にソウルオープンが開催され、日本も参加することになっていた。お馴染みの聚楽に選手団は集まったが、二日間足止めを食った。「出るべきか、止めるべきか」迷っていた。

そこへ荻村伊智朗氏が来られた。「卓球の選手団だからこそ言ってくれ。これが文部省の見解である。明日出発してほしい」本当に緊張の連続が続いた。斉藤清選手の新人時代であった。

何時だったか荻村伊智朗氏が次のようなことを言われた。

55年ユトレヒト世界選手権のことである。恒例に従って首相官邸に優勝報告に行った。鳩山首相からお褒めの言葉があるはずだと思ったら、「君達たくさん優勝したが、そんなものどうでもいいよ。それよりも、大使館で掲揚する日の丸が毎日汚されて取り替えなければならなかったのに、君たちのフェアプレーがオランダ人の心を捉え、日の丸を取り替える必要がなくなったことの方が大きな業績だ」と言われた。

荻村氏をしてスポーツが政治を動かすことを知った第一歩だったかもしれない。(東山高等学校前部長兼監督)

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