『命をかけた卓球改革』田舛彦介「卓球人」創刊号 特集「偲・荻村伊智朗」より

卓球人表紙

※「卓球人」創刊号 特集「偲・荻村伊智朗」より。1999年9月30日発行

命をかけた卓球改革

本年7月、久しぶりでUSオープン卓球大会を視察した。アメリカの新会長ピットマンさんは36才の美人女性。「私はオギムラさんが国際卓連会長の時に彼と一緒に卓球開拓の仕事をしたかった」と語った。

1953年のアジア選手権東京大会で活躍した元イラン選手のボゾルザデさん(アメリカの前コーチ)はこう云った。

「オギムラは偉大だった。彼を失ったことは世界の卓球の大きな損失だった。6つの大陸に卓球を拡大してくれた。小国を助けてくれた。今日それが出来る人がいない。悲しい」

荻村伊智朗さんの最後の10年間は「欧州の卓球を世界に広げる」壮烈な大奮闘だった。

45年前、21才の彼が初めて世界選手権ロンドン大会に出発する時、筆者はコーチ団の一員だった。コーチ団を困らせる提案が荻村選手から出た。

「藤井則和ほどの体力と天才的技術力をもってしても、バーグマンを大接戦で破ったあと、体力がスリ切れた。ボク達の体力では、正確な攻撃ラリーだけではダメ。日本人が欧州選手の体力に打ち勝つための戦略は変えるべきだ」としてサーブカとスマッシュ力の極限までの強化、即ち百発五十一中戦略提言だ。

コーチ団は「生意気な発言」とは思ったが反論できなかった。彼はサーブ力の強化のため、毎日1時間半の自発的特訓を始めた。また1センチ近い厚さのスポンジを使いこなし、用具の戦力でも新境地をひらいた。

シドら欧州選手から見れば、荻村の攻撃力には、用具と技術力で最後までラリーがかみ合わなかった。荻村ペースに組み敷かれた。

選手荻村が常に高い目標に挑戦「12種目の世界タイトルを獲得した」と同様に、選手引退後の荻村は、世界の卓球政治のトップを目指した。

その理念は高く、大きかった。英国生まれの卓球、ヨーロッパが世界を支配してきた卓球を変えることだった。中国を核としてアジアの台頭、次にアラブ、アフリカ、中南米の卓球振興の指揮者だ。

彼が欧州から世界六大陸の卓球に広げる大活躍をしたことは世界卓球百年史の大記録とされることは間違いない。

79年に会長代理、87年に国際卓連会長に就任直後の2年間に80カ国を歴訪した。世界の誰もが驚く超人的行動だった。

アラブ諸国からアフリカ、中南米諸国を訪問、卓球振興策を指導した。ある時私達日本卓球工業会に対し、コートやラケット寄付の要請もあった。

彼の諸国歴訪は年間およそ25回。それも一回に3ヶ国以上を巡歴する超人的スケジュール。過労と時差と酒が人生を縮めた。彼が病にたおれた時、筆者は旅を半分に、とすすめたが、彼はにが笑いをしただけで言葉はなかった。

命を賭けた大改革だったとしか思えない。数々のカベを破って彼は進んだ。ついていく人々にとっても、重い荷物を背負うこともあった。しかし、日本人として彼の業績を賛美しつつ協力した。

不世出の闘士だった。できればもう十年がんばってほしかった。と思う人は多いだろう。しかし、彼自身「確信し満足の人生」だったのではないか。よい時代でもあったのではないだろうか。

(日本卓球協会顧問、(株)タマス創業者)

卓球人田舛彦助さん

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