選手強化の問題点
木村氏のコーチ辞任は、卓球界の内外に大きなショックを与えました。「あの木村氏でもダメなのか」と、彼をしる多くの人がおもったことでしよう。
世界選手権大会のような大会としての重要な行事に属する事項として会長が専決権を発動して木村方式が信任されなかったのですから辞任ともいえるし、解任ともいえましよう。
せっかく世界選手権までやるつもりでいて、途中で挫折感をもって去る方もつらいし、選手もつらい、後を引き受ける人もつらい、みんながつらい思いをした辞任でありました。
卓球協会の選手強化にはむずかしい点が多くあります。
1965年以降に発足した強化部は、中国の組織的選手強化に対抗して、協会としての長期的選手養成、強化を目指したものでした。それまでの日卓協の選手強化は、1月か2月に選手団を発表してから、その人たちだけを対象にしておこなったものです。
協会の長期的な強化計画は、母体の強化努力や選手個人の強化努力の上にプラスアルファを協会としてつけ加えよう、という考えにもとづいたものであると思います。いいかえれば、各母体単位、各個人単位の努力だけでは、国ぐるみの努力をしてくるところにはやがて対抗できなくなる、という危機感から生れたものです。
しかし、これは決して母体や個人の努力を軽視したものではありません。それをいかしながら、協会の強化をプラスしよう、というのですから、たいへんむずかしい仕事であるわけです。下手をすると、プラスアルファどころか、マイナスアルファがでてしまいます。
このむずかしい仕事をやりとげるためには、卓球界全体の理解や協会ぐるみの応援、母体や個人の理解と協力がなければなりません。
それらの理解や協力、応援を一まとめに代表できるのはだれかといえば、それは会長です。会長の信任が得られなくなれば、とてもやれるような仕事ではないし、やめざるを得ない、と判断したのもやむを得ないのではないか、と思いました。
世界選手権までは、野村さんが後を引き受けられましたが、もうだれがやっても1952年以来13年間ほど日本卓球協会がやってきた強化方式しかないわけですから、時期的にはちょうどきりのよいときだった、と思います。
世界選手権大会が終ってからの強化方式は別に考えたい、と後藤会長もいっておられますが、私もそうした方がよいとおもいます。
プラスアルファのでないような方式ならばやはり思いきってやめて各母体と各個人の努力に依存し、協会は代表選手に決定したのちに一定の訓練を施せばよい、と思います。それで負けたらしかたがないわけです。
一定のものに一定期間、一定の権限を付与して仕事をしてもらうときは、協会の正式な意思決定をへてお願いし、その期間そのものからはその権限を実質的にも形式的にもとりあげないで思いきってやらせ、責任はみんなでとる、といった連帯意識がもてるようならまかせ、もてないようなら初めからまかせないようにした方がよいようです。
協会の運営上特に重要な事項には会長の専決権があるとおもいます。これをどのていどまで下部に委譲するかしないか、のむずかしい問題だった、と感じました。
選手の迷惑ということ
この問題で選手というと、すぐ20人か30人ほどの一にぎりの選手のことが頭にうかびますが、協会の指導ともなると、50万人なり40万人なりのひたむきな努力をつづける選手たちのことをも念頭において行動しなけれはならないのでたいへんだとおもいます。
「あと3ヶ月で辞任して選手に迷惑をかけた」という論評がありました。木村氏は長期計画を(といっても8ヶ月ほどのですが)ひっさげて就任しました。就任するにはそれだけの条件が整っていた、とみなければなりません。
木村氏による長期的指導は木村氏の指導理念や方式に基いたものでなければ成りたたないでしよう。木村氏の指導方針が会長の専決権によって否定されれば、その瞬間から木村方式は辞任するとしないとにかかわらず不在になるわけです。選手が木村氏による指導をのぞんでいたとしたら、どっちみちそれは木村氏らが辞任しなかったとしても実質的にはあり得なかったことになります。
「なぐられても蹴とばされてもやるべきだ」という協会関係者の言葉が新聞で報じられていましたが、形だけそこにあっても実質がともなわない指導を受ければ、迷惑するのは選手諸君だったことでしょう。
したがって、木村氏の指導を心からのぞむ選手達がこの問題で迷惑したとすれば、それは木村指導方式が実質的に崩れさることが決定したことであって、辞任したことではないのではないでしようか。
1971年2月
荻村伊智朗
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