1971年をふり返り 自力更生をおもう
話題をふり返る
1971年の卓球界は世界的に話題の多い年でした。
2月に発表された日本卓球協会、日本中国文化交流協会、中国卓球協会、中日友好協会との会談紀要は、単に中国の世界選手権大会参加の糸口になっただけではなく、日中スポーツ交流正常化のためのモデルケースになりました。
4月におこなわれた第31回世界選手権大会には、57カ国という空前の参加があり、卓球競技をマイナー視する世間の眼に大きなデモンストレーションとなりました。
この大会で中国は、スポーツが政治の下位にあり、政治的立場を忘れたスポーツ活動はあり得ないという考え方を“南ベトナム”、“カンボジア”の選手との対戦拒否を通してはっきりと示しました。
大会後に各地で行なわれた友好試合は、数年来忘れ去っていた中国型卓球についての反省を卓球人の間に呼び起こしたものと思われます。
夏の高校ジュニアチームの訪中は、世界選手権の後に各国が相ついで中国を訪れたのに続き、日中の若い世代の交流という意味で画期的なできごとでした。
山本弥一郎副会長を団長とする参観団が訪中し、各地各界の権威者が“この目でみた中国”を語る経験を得たことも日本卓球界のために大きなプラスでした。
秋に入っても中国をめぐる世界の情勢は益々活発で、11月に中国はヨーロッパ歴訪とAA大会という二つの大きな話題を提供しました。
その間にニクソン訪中の決定、中国の国連代表権回復、など、国際政局が大きく動きました。
そして12月、全日本選手権における長谷川大関の優勝でわが国卓球界の行事も終り、日本卓球協会の評議員会はアジア卓連脱退と支部会費の値上げを決議しました。
この中のいくつかのできごとは、単に過去の記憶ではなく、1972年の卓球界、1982年の卓球界に大きな関係のあることです。それらの持つ意味について少し考えてみたいと思います。
中国人気に甘えないこと
“ピンポン外交”という言葉が何百回も新聞紙面を賑わしました。卓球は日中友好のために大きな役割りを果しました。しかしいうまでもなくそれは、“してやったこと”のではなく、“自分達の希望したこと”が根本です。中国人気に甘えないようにしなければならないと思います。
自力更生
“意外にブームが起きない”という声もききます。話題になったわりには卓球ブームが起こったわけでもなさそうです。日本自身の底力を技術的にも強くすれば、大衆を動員するブームも起きるように思います。中国の言葉を借りていえば、自力更生です。長谷川、河野が育った指導体制が代ってから数年になりますが、いまだに次の世代からこれに代る新人が現われないことも、両者の努力を賞讃することと離れて、淋しいことです。
ジュニア訪中の成果も、それらの限られた人たちが伸びた、というだけの結果ではなく、その刺激で他のジュニアの選手達のヤル気が増し、来年の日本選手権には高校生のランキングプレイヤーが出現することを期待したいと思います。
自力更生といえば、卓球協会の支部会費が72年から2倍になり、400万円になります。
2000万円の年間総予算のうちの20%を占めるようになる値上げの是非は論ずるまでもないことだと思います。しかし支部の負担は、各種大会参加の費用などを含めると、かなり大きなものになっており、一回に400万近いお金がかかる第一線選手の外国遠征に疑問や注文もないわけではないようです。
頂点強化と底力を肥やすことの両立をとげるためには、結局は卓球人一人ひとりに基盤をおく支部の経済力を増すことでしよう。そして協会の財政を会員一人ひとりの会費が支えられるようにすることだと思います。もちろんこれは卓球チームの実数の調査、実働選手の員数調査など、地道なリサーチの積み重ねがあったのちのことだと思います。
自力更生の努力は選手育成にしても、財源獲得にしても、長い目でやり、正しい目標への継続性のある努力であるべきです。
1971年12月
荻村伊智朗
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