若者に74年の夢をたくす
1973年は日本卓球界にとって多難なとしでした。サラエボの世界選手権大会で明け、駒沢の全日本選手権大会で終わった感じです。その全日本が終わって数日後、新聞の片隅に出た小さな記事が、私にとっては“桐一葉、落ちて天下の秋をしる”出来ごとでした。それは、世界ランキングリストの発表です。
男子ではベストテンに一人も入っていない、と新聞は伝えていました。その後のヨーロッパからの情報によれば、日本チャンピオンの長谷川君のランキングは25位とのことです。もちろん長谷川君よりも上位へ日本から何人か入ってはいます。しかし、国内の目からみれば、チャンピオンが25位ならば、その他の人はそれ以下に思われるのが自然の情というものでしょう。
ですから、この問題は一人長谷川君の屈辱というように考えるのは適当でなく、日本の男子卓球選手全員の屈辱でもあるわけです。他人ごとのように思う選手がいたら、まちがいだ、と思います。
こういうことが何でもない出来ごと、大した話題でもない出来ごとになってゆくことが私には恐ろしく感じられます。
20年前の1954年、日本卓球界は欧州へチームを派遣するかどうかで議論が百出していました。当時としては巨額な金が必要でしたし、日本卓球協会には、その金を調達する力はまったくなかったからです。
最後は、候補のうちで一人80万円の負担金を協会へ差し出せる者でチームを構成することになりました。80万円はムリだ、と辞退する候補も出ました。私の友人達は、厳寒の中をボールの箱を持って何ヶ月も駅頭で10円募金をやり、金をつくってくれました。
54年のロンドン世界選手権大会参加は、それが不成功だったら当時の選手にとって二度とチャンスがなくなる、という切羽つまった悲愴感のただよう中で行なわれたのです。
ちょうど新型のコメットというジェット機がたてつづけに落ちたころでこしたが、私達は、「帰りは落ちてもいい。行きだけは落ちないでくれ。試合だけできればいい。」と祈って55時間の飛行機の初旅をしました。
その後、私たちもがんばりましたし、よい後輩が続々とあらわれて伝統を守り、今日に至りました。
さて、そして1973年の暮、世界ランキングに天下の秋を感じたのは私一人だけだったでしょうか。
そんなことはない、と私は思います。きっと日本のどこかに“俺がやってやる”“私がやってみせます”と奥歯を噛みしめながらこの一文を読んでくれている若者がいると信じます。
ちょうど私が1952年、日本で15戦全勝をしてゆうゆうと最終戦を飾ったバーグマンとリーチの姿に、“だれもやる者がいなければ、必ず俺が君達を倒す”と後楽園アイスパレスの天井桟敷で誓ったように。
そうした気概をもった若者に、1974年の夢をたくしてゆこうではありませんか。
※編集部注
バーグマン(オーストリア→ポーランド→イングランド→アメリカ)
1937、39、48、50年世界単優勝
リーチ(イングランド)
1949、51年世界単優勝
この両選手は1952年に来日して、その年の世界チャンビオンの佐藤、ダブルス優勝の林、藤井らの強豪と対戦し、チーム戦は15戦全勝で帰国した。
特に、バーグマンは仙台の試合で角田少年に一敗したのみで、完勝だった。発行人は当時、高校を卒業したばかりの無名の選手だった。が、後楽園アイスパレスで行なわれた試合を見て、バーグマンを倒す決心をし2年後に実現させている。
1973年12月
荻村伊智朗
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