このごろ考えること
8月から10月にかけて約6週間、中国と朝鮮を訪問し卓球についていろいろ考える機会がありました。考えれば考えるほど興味が湧くものです。私が関心をもっている問題のいくつかを紹介させていただきます。
1.臨戦力の強化、ということ
大会にのぞむチームは中学から全日本まで、いろいろと準備をします。「人事をつくして天命を待つ」という言葉は、試験の答案を出してしまったあとの心境ですが、卓球の場合、あてはまりません。最後の最後まで人事をつくすのみです。
ところが、私達の準備は、特に全日本クラスのチームになると合宿などでの準備段階ではコーチと選手の協同作戦や情報収集の面でもなかなか活発で、私達の選手時代にくらべれば比較的よく準備されているといえましょう。
しかし、試合にのぞんでからの情報処理を中心にしたチームのシステムプレイは、ほとんど昔のままです。少数のコーチがメモをを片手にアドバイスしていますが、これにしても暗記の代わりにメモという別の手段を利用しているだけで、システムが変わったわけではありません。
このあたりのところをもっとつっこんで研究していったら、日本チームの臨戦力は相当向上するのではないか、と思います。
また、そうしたシステムプレイを学習し、強固にする場としての合宿ならば、いままでの合宿以上に“集まってやる”意義も強められると思いました。
2.体力の境界まで技術はのびる、ということ
この場合、卓球選手の必要とする体力とはなにか、ということをしっかり規定しなければなりません。それから、その体力を測る方法はなにか、ということもはっきりさせなければなりません。この面の科学的な研究が必要です。
しかし、田中拓君が、「もっと体力トレーニングを重視すべきだ」と私達に語られた言葉は印象に残りました。私も、その人のもっている体力の境界まで技術はのびると思います。境界には個人差があります。個人差は、高低があという意味だけではありません。別の特徴がある、ということです。“個人の体力の境界の特微をよく判断しそれによって伸ばす”ということになりそうです。
筋肉、内臓、神経、それに、荘則棟氏流にいえば“脳筋”の諸問題などが特徴をつくりだす要素になるでしょう。
3.集団指導、ということ
コーチの集団という意味と、コーチと選手との集団、という意味とを考えてみなければならない、と思いました。また、指導とは、コーチから下しおかれるもの、という上下の流れだけを考えた設定を考えなおさねばならない、とも思いました。選手相互間の指導という意味だけではありません。強制と自発性とはどちらが選手の精神的エネルギーの発動が大きいか、そして質が高いか、ということでもあります。
4.競技力向上トレーニングのための新しい段階的な考え方をみつける、ということ
試合場で要求される戦術や技術には幾百、幾千の種類があります。昔よくやられたものでいまあまり行なわれていないようなものもあります。
こうしたものを高い水準から低い水準へと整理してみる作業は、むずかしいけれども面白い作業です。
整理ができれば、逆に低い段階からの登り口の設定もできるでしょう。私が昨年書いた本にもそうした試みがされて好評を得てはいますが、まだまだこうした研究は緒についたばかりです。まったく別の新しい視覚からのアプローチをそのうち本誌でも試みてみたい、と思っています。
1973年10月
荻村伊智朗
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