『岩手の美術館』1975年9月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗

岩手の美術館

岩手にある72才の老画家が50年の画業を記念して、自然主義派の絵を中心とした美術館を建てた。

NHKのラジオがインタビューをおこなっていたのをきいたところ、二三、心を打たれた言葉があったのでお伝えしよう。

アナウンサーが、あなたは50年の画業を記念して全財産を投げだされてこの美術館をおたてになった、とききましたが、と水をむけたところ、画家は次のように答えた。

50年の画業から多少の蓄積もできました。それを全部投じた、とおっしゃったが、そんなことはありません。全部を画と建物とに移しかえただけなのです。なくなったのは金ですが、増えたものがあり、それは美術館と画なのです。だから、失なったものはなにもないのです。しかし、それで終わりではありません。この美術館を財団法人にする手続きをいますすめていますが、それが財団法人になり、個人の持ちものではなくなったときにはじめて、私のものは皆のものになり、一まず終わりとなるのです。

それからは見る人を通じて私の仕事は生きてゆく、という意味の言葉を淡々として語っていられた。事業によって金をもうけた人が市などに寄附する美術館の話とはちがった香気を感じたのである。

その話をきいて思いだしたのは、日本大学の卓球部へ入ったときに先輩からきいた、日大の先輩で過日物故された鶴見さんの話である。

卓球部の創設者として、一部で優勝することを決心した鶴見氏は、リーダーとして奮闘したがなかなかうまく行かず、4年では夢がかなえられなかった。学部を変えること3回、三つの学位をとり、12年かかって日大が優勝するや、豁然と笑って卒業していった、というのである。

卒業した後は官職について、会計検査院において局長まで昇進され、その間に56年の世界チャンピオン大川とみ選手など、多くの卓球プレイヤーを育成された。

自分の属する社会から利得を一方的に得るのは若いうちにだれでもやることだが、それを環元する立場になると、なかなかむずかしいものである。中には引きつづきとりつづけ、返すことを知らない甘えたケースもでてくる。しかし、これには性格もあるようだ。

社会に寄与する志のある人は、若いうちからやはり、何がしかのエネルギーを他の人のために、犠性に割いている。

そんなことを考えているうちに、ラジオはまた、別の話題にうつっていた。アナウンサーは、老画伯の完全主義ぶりに話題を取材していたらしく、ずいぶん大工さんを手古づらしたそうですね、といった。

大工さんはよろこんでやってくれましたよと画伯はおだやかに反論した。あまりに淡々としたやさしい口ぶりなので反論されたアナウンサー自身も、それと気づかなかったのではなかったか。

みんな十年以上もいっしょに仕事をしている大工さんですから、ここはこうしたほうがよいんだ、と説明すると、ああ、そうか、という具合いで、よろこんでやってくれるんで決して手こずりなんかはしなかったはずなんです。と画伯は話を続けた。

でも、と若いアナウンサーは話を続けた。たぶんインタビューの時間がまだ相当あったので、ここでこの話が終わったのでは困ったのであろうか。

でも、扉一枚に一年半もかかったそうですが、とアナウンサー

それはね、と画伯の声はちっとも変わらずおだやかだった。それはね、いまの大工さんも職人としての腕はちっとも昔の大工さんに比べて劣りはしないんだ、なるほどそういうわけか、とわかればそれだけの工夫もするし、時間もかけるし、けっきょくはいいものをつくる。そして後世に技術を伝えてゆける。こんなよいことはない、と大工さんたちも思って、私のいうことをきいて、いろいろとやってみたからそうなったんです。とても良いものができましたよ。

水準の高い文化は、ナアナアの雰囲気のうちには生まれない。相手を高めよう、という動機が純すいであれば、他人の目には苦言のようにみえても、それは教育であり、激励である。卓球のコーチと選手にしても、この画伯の心境と大工さんたちの心境とは全く同じようなものではないだろうか。

投げだす、とか手こずる、とかいった言葉には戦後入ってきたアメリカの利己主義が、人間として純すいであり、最高のモラルであるとしてとらえた教育がアナウンサーの心に反映していたような気がした。

1975年9月

荻村伊智朗

1975.9.岩手の美術館

 

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