解決できない条件があってもよい 解決できない条件を孤立させよう
-あることがわからないために、わかっていることまで見失わないようにしよう。できないことがあってもよい。できることにベストをつくせ-
ロングマンがカットマンとの試合で、1ゲームめは打っていったが変化がわからず負けてしまって、2ゲーム目は基本のラリーをツッツキにしてよくねばって接戦になった。しかし、チャンスを見つけて打っていくと(かなり有利な態勢になっていても)、どうしても返球されたカットの変化がわからない。よくこういうことがある。
たとえば、カットマンのあるときの変化がわからない。たとえば、自分が攻め込んだときに返されたとき、その変化がわからない。これをどうしても解決できない、というときがある。
ツッツキから攻めはじめるときは“切れた、切れない”の区別がついた。だが攻めたボールを下がって低い打球点で返されると、サッパリわからなくなってしまう。国際試合でもよくあることだ。
このように、どうしても解決できない条件があるとした場合、これをどう考えたらよいだろうか。
まず私がすすめたいのは、「自分のいまの腕前で解決できないことがあっても不思議はない」と思いなさい、ということだ。
もちろん、「どんな困難でも解決してみせるぞ」という気持ちも失なってはいけない。
そして、わからない原因というかメカニズム(しくみ。相手がカットのフォームやボールを変化させる技術のコツ)をつきとめる努力を捨ててはいけない。だが、いっぽうでは、わからないなりになんとかしようと思うことが大切だ。その“なんとかしよう”の中で、「解決できない条件を孤立させよう」と思うことはとても大切だ。
これは別のことばでいえば、「解決できない条件があってもよい。だが、それにこだわらないで他の条件は完全に解決しなければならない。」と決心することだ。
例をあげよう。球質がわからないから足がばらばらでよいということはない。しかし、一つがわからなくなると、他のことまで意識がくずれてくることが多い。たとえば、振りがにぶくなる、足が乱れる。こうくる球に対して自分の足はこうだ、という正しい一つの型がだれでもあるはずだ。ところが、振りかたがわからないから足もばらばらでよいということはない。振りかたがわからないからにぶい振りをしたのではなお入らない、振りかたがわからなくても、いやわからないからこそ、すくなくとも他の条件はてっていてきによくしなければならない。
つまり、フットワークは正確にし、球に対してのスタンスを正しくそろえる。振りの速さだけは小さくてもシャープにふりきる。こういう点ではベストを尽くせるわけだから、これは完全にしておく。それでもなおかつ最後の段階で、球質がわからないからミスをした、というのならしょうがないではないか。
そうしておきさえすれば、わからないなりにもたまたま正確な角度がでたらば、すごいボールが入って一点とれるではないか。ところが、これがわからないために他までくずれていくのではたまたま角度が合ったところで入らず、入ったとしてもいいボールでは入らない。これでは絶対によくならない。
他がくずれているためにまたミスが出る。ますます自信がなくなる。こういう悪循環の形になる。
何か自分が解決できないことがある。誰れかのサービスがわからない。わからないといって手だけ出したのではよくない。やはり、ボールのそばにいって(足を踏みこむ、とかして)正しく行なう。
あるいは切れていてどうしても打てない。打てないけれど左足の踏み込みだけはしっかりやる。解決できない条件があったとしても、それは実力が低いのだからしようがない。
他のできる条件は全部完ぺきにしていくんだ、という気持ちでいけば自分の気持ちはおちつく。そして、解決できない条件を解決できる条件でとり囲んでゆく。
だんだんほかをつぶして、あと一つだけしかわからないのはない、という状態にする。そして、一生けんめいボールを見るとか相手のフォームをみるとか、そういうことで最後にのこった困難をまたつぶしにかかる。音を聞くとか、いろいろある。
こうした考えかたは、試合の場合特に大切だ。こうした考えかたが身につけば崩れが少ない。
もちろんこの考えかたは練習にも生かせる。
卓球ジャーナルの読者には、自分の問題点の整理をはじめることをすすめたい。自分が解決できる条件と解決できない条件とを整理してみたらどうか。そして、解決できる条件で解決できない条件を包囲してみよう。あんがい、「解決できない」と信んじこんでいた条件を解決できるかもしれない。
1975年3月
荻村伊智朗
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