私の中の早稲田卓球

私の中の早稲田卓球

日本大学卓球部OB 荻村伊智朗

おおよそ30年になろうとする私の卓球活動は、早稲田大学の卓球に学んだことと深い関係がある。

昭和23年、私は東京都下で有数の少年野球のピッチャーだった。

野球

後年、私のキャッチャーは東都大学リーグのリーディングヒッターになり、チームのあるものは立大のセンターを守った。私が“卓球をやる”といいだしたとき、チームメートは義理でなく惜しがり、ある者がいうことに“俺に名案がある。ワセダの卓球部の人に診断してもらえ。” 三鷹にあった畑の中の東大の寮で、ある夏の日の午後、その副将にみっちり一時間打っていただいた。

 

「荻村君」と、体格のいい、男性的な風ぼうのMさんは、うす暗がりの卓球台のわきで私のそばに立ち、落ちついた声で、かなり長い沈黙のあとで、語りかけてくれた。

「君は卓球はやらない方がいいと思うんだ。第一に君には素質がない、第二に君は卓球をやれば肺病になるだろう。卓球は激しいスポーツだ。そして室内にはどうしてもほこりが多い。だから、いままでにも大勢の人が結核で途中でやめなければならなかった。君は顔色がよくないし、屋外スポーツのほうが向いていると思うよ。」

 

私はこの2つの教訓をいつも活かした。素質がダメなら努力でしかない、と決心したこと。どんなに成績がよくなっても素質のせいだと思わないですんだこと。体育館の床を毎日雑巾がけしたこと。早稲田のMさんの忠言に感謝しているし、早稲田マンの率直さ、誠実さを畏敬している。

高校生

私が最初に読んだ本は、今孝さんの『卓球』。なん十回も読み、注をつけ、日本は強かったんだなあ、と感じた。

高校三年のとき、早稲田のOBの鎌田さんの蔵書を何十冊もお借りする機会があって、私ははじめて日本の卓球というものの全体像に目をひらいた。

 

大学にすすんで、池の端である日、野村先生のかの“なじましてポン”という打球点中心主義(私も共鳴)の講義を受け、多くの方が体験されたであろう先生の腹の太さを背中に感じた。

リーグ戦、ビジターは対等の力なら勝てないということを、これほど徹底して教えてくれた会場はない。

目の前で高らかに湧き上がる“都の西北”の斉唱。

敗者の気分とこれほど対照的な歌はまたとあろうか。

そしてあのサーブの数々!審判に選手が注意されるや否や“いいんだ!ドンマイ!”とべンチから間髪を入れぬタイミングででてくる激励?の巧みさ!

いまにして思えば、あのリーグ戦のモノスゴサは、当時の日本代表を襲った世界の場での数々の事件に耐えた強い神経の鍛冶場だったのだ。

 

就職後、夜中まで飯を炊きながら練習に励まれた原さんのこと、城北体育館での山上-藤井戦でみた山上さんの拝み流しスマッシュの名技、日英対抗での古沢さんのフットワークと粘り、中さんの豪快さ。そして後年、木村興治氏が早稲田から出現したときの感動、松岡さんに招きを受けて中学生の鍵本君を観に行ったことなど想い出は尽きない。

 

部外の一人の卓球人にも人間形成の上で大きな影響力を発揮してきた早稲田卓球部の歴史は、巨大な力を秘めている。

かつて鎌田さんにお借りした雑誌に、OBの竹内さんが病床から書かれた小説の中で「球界に一人のゲーテ出ずんば、多くの選手は無名の詩をつづらねばならぬ」とあった言葉は、いまも心に深く残る。

優勝劣敗、弱肉強食の覇者としてだけでなく、竹内OBの心の叫びを暖かく表現できる巨大なスポーツマンが、この巨大な部から、やがてまた生まれることであろう。

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