【編集部注】
本稿は、木村興治氏が自身の卓球観や練習に対する考えを綴った記事である。世界選手権で中国に3度敗れ、競技を続けることへの不安を抱えていた時期、木村氏は荻村伊智朗から助言を受けた。その後、木村氏は「中国に勝つこと」だけを目標とするのではなく、「自分の卓球の完成」を目指すべきだと考えるようになり、さらに卓球に取り組むことを「人間文化の向上」へとつながるものとして捉えている。
荻村自身も別の記事において、「何のために卓球をやるか」という問いに対し、人間の文化の向上に少しでも光を加えるために卓球をする、という趣旨の考えを語っている。本稿は、そうした荻村の卓球に対する考え方が、同時代の選手である木村氏にどのように受け止められていたのかを知ることのできる資料である。
「技術練習の考え方」を読んで
自分の卓球を力の限り 木村興治
「自分の限界に挑戦する」というこの文章は現在の自分の気持ちにマッチできる。全く同感だ。
わたしはこれを読んだとき、いつか、荻村さんと話し合ったことを思いだした。中国に3度負け、わたしは相当気落ちしていた。
帰国してからも練習を続けていたが、もちろんやる以上は進歩を目指し、自分の限界をのばそうとしていたが、今までの目標である中国を破ることが遠ざかり、もう2年先まで待たなければならない。
自分ははたしてそのとき選手として機会を得られるだろうか。機会を得たとしても、また負けるかもしれないという不安な気持ちがうずまいていた。
★人間文化の向上に全精力
そのころだった。荻村さんからこの文章にあるような忠告を受けたのは……。それ以来わたしは卓球をやるのは次のような理由によると自分にいい聞かせている。
気落ちしたりするのも、目標を中国に勝つことだけにおいたからだ。われわれは自分の卓球の完成を目標とすべきだ。
スポーツであるからには、勝負があり勝つために努力することは大切だけれども、究極の目的である自分の卓球を完遂させる途中の一部分と考えるべきだ。その勝負も勝ち負けの結果より、内容の如何が問題ではないだろうか。そして目標を目指した過程に世界選手権の代表になるとか、中国に勝つという部分としての目標があるのだ。
わたしは新たな気持ちで練習を続けている。自分しかできない自分の卓球を力の限りやるんだ。
わたしが卓球を始めたころは好きなだけ上手になりたい。ある試合に勝ちたいという興味や欲求が卓球をやっている理由として考えられた。そのため、試合に負け、意気消沈しあとあとまで考え込んだり、試合のない冬の間(シーズンオフ)など、練習に真剣さが欠けたりすることがあった。そのころからこの文章にあるような気持ちを持っていたら、断言はできないが、練習や試合のときの態度が違っていたかもしれない。
現在のように自分の限界を常に広げていくんだという卓球を“神聖視”した気持ちがあったら練習を1分だって無駄にできないはずだ。それだけ限界をのばすのが、進歩がおくれてしまうからだ、そればかりでなく退歩につながるかもしれない。
卓球人は日本に数十万人いると思われる。その人たち全部がこのような気持ちを持ったなら社会全般にりっぱな役割をはたすと考えても大げさではないと思う。
なぜかって、われわれはロビンソンクルーソーになることは不可能だからひとりでは生活できない。卓球だけとってみても学校の卓球があり、各校の集まったある単位の試合があり、更には、全日本選手権、アジア大会、世界選手権と色々な社会と関連性をもっている。
それぞれの場において、人間能力、自分の卓球能力のすべてを出し競いあい技をみがき合う姿は、卓球人ばかりでなく見る人にも感銘を与えてくれる。
科学者が、音楽家が、画家が……人間文化の向上に全精力、全知能をかたむけ努力しているのと何ら変わりないと思う。
ただスポーツに対する評価が世間一般ではまだまだ低くみられそれらと同等にみられない現況であるが、卓球人にとっては世間一般の見方や評価は問題ではない。卓球を志すわれわれの心に持つほんとうの気持ちが大切なのだ。
★経験主義から抜けだそう
今までの経験からいろいろな技術の必要性を感じ、現在の練習の中に、このような考えを取り入れてはいるものの、このように理論づけ体系づけて考えられた文章は初めてであるし、選手のひとりとして、また、ときには後輩の指導もやらねばならない自分には、反省させられ、勉強になることが多く、とても重要で必要なことだと思う。
人間には変化に対する抵抗があり、新しい方法が良いという証拠がなければ、なかなか今までの方法を変えることはできないが、この文章は今までの伝統的に理論的にはばくぜんと考え実行されていた、上下関係あるいはそれに近い練習方法を打ち破るに十分な理論、体系づけのある文章だと思う。
指導者に
選手はもちろんのこと、特に全国の多くの指導者の方々にお願いしたいことは、軟式卓球あるいはそれにつながる日本の伝統的な練習方法(一技万能主義)について、ここらで一考していただき、近代卓球に即応する新しい練習方法を、経験主義から一歩脱却して、真剣に考え研究していただきたい。
選手に
「並立の位置関係」だからといって、誰もが、いろいろな技術を同じように練習するのであってはならない。自分の潜在能力はどれくらいあるのか選手自身も考え、分析してみることは大切だと思う。
また、選手に希望したいのは、いろいろな必要な技術のうち、何を優先させるか。自分に欠けているものは何か。現在もっている能力はどれくらいか。自分は実際に何を希望しているか等々……、をよく考え練習計画を立てなければならないと思う。
自分のプレーについて
現在のわたしは、フォアハンドドライブを中心としたオールラウンドプレーを目指しているが、グリップの関係や台から離れているため、大きなスウィングになり5年前から始めたバックハンドがまだものになっていない。そんなこともあり、試合になればバック側の無理なボールも、やはりフォアハンドでまわり込んで打ってしまう。今までの試合でバックハンドが思うように振れないために、台から離れすぎていて、失ったポイントがいかに多かったことか。
以前からこの並立の練習+フォアハンドドライブ(今のような)があったらと痛感している。またその反面、現在の自分の心境は、自分にはこれだけしかできないんだ、自分にできるフォアハンドドライブに卓球の全生命をかけてやるんだ、という気にもなっている。
試合において、ドライブ主戦の選手であっても、ときにはカットやショートを多く使った方が有利なことがあるかもしれない。ドライブを殺してカットやショートを使うということは、自分の戦力を低下させることになるが、相手がそれ以上に戦力低下をきたすとしたら、カットであれ、ショートであれ、使うべきなのだ。そんなときのためにも、主戦技術以外の技術の十分な練習も必要なのだ。
(全日本硬式No.1、ゼネラル物産)
協力:株式会社タマス(バタフライ/卓球レポート)
出典:卓球レポート1965年11月号















