【編集部注】
本稿は、日本大学広報部が出版した『このひとも日大人』に収録された荻村伊智朗のインタビュー記事である。卓球を始めた高校時代から、日本大学芸術学部での学生生活、世界の頂点に立つまでの歩み、実業家としての活動、さらに1983年東京世界卓球選手権大会への思いまで、荻村自身の言葉で語られている。競技者としての歩みだけでなく、学生時代の経験や恩師との関係、事業や卓球に対する考え方など、荻村伊智朗の人物像を知ることのできる資料である。
世界卓球界のリーダー
日本卓球協会専務理事 荻村伊智朗 氏
| 昭和7年6月、東京生まれの48歳。都立西高校から都立大学を経て昭和28年4月、日本大学芸術学部2年に編入学、31年3月、同学部映画学科を卒業。その間、29年に世界選手権大会で初優勝(単)したのをはじめ36年まで、単、複合などのチャンピオンとして世界の卓球界に君臨した。日本卓球協会専務理事。2男1女の父親で、現在荻村商事有限会社の取締役社長。 |
「スポーツマン・クラブ」というのが、東京・渋谷の岸記念体育館一階にある。本学の柴田勝治副理事長をはじめ、日本のアマチュアスポーツを支える人たちや往年の名選手などが、ズラリ名を連ねる文字どおりのスポーツマン・クラブである。
そこで荻村伊智朗さんに会った。貿易業を営む荻村商事の社長であり、かつての世界卓球界の王者、あの荻村選手だ。もちろん、クラブの有力メンバーの一人でもある。
中肉中背のからだを地味なグレーのスーツに包んだ荻村さんは「お待たせしまして…」と、不動の姿勢から節度ある斜め十五度の敬礼。そしてソファに腰をおろし、背筋をシャンと伸ばした。タバコは吸わない。
キビキビとした動作、素早く的確なハキハキとした応答。旧制中学から陸軍幼年学校に合格、入校直前、終戦を迎えたという昭和ヒトケタ生まれらしい実業家と見受けた。いや、それは敏捷な動きが身上の卓球で培われたものかも知れない。
そういえば、昭和ヒトケタ世代からは、敗戦直後の最悪条件をはねのけて、次々と名選手が誕生している。水泳界で活躍した校友の古橋広之進、橋爪四郎の両選手もそうである。
――十年近くも世界の卓球界に君臨したというのは珍しいのでは……。
「種目はいろいろでしたが、12回優勝しました。いま生きている世界の卓球選手の中では、一番金メダルは多いんです」
――卓球をはじめたのは、いつからです。
「都立西高の1年生だった昭和23年9月でした」
――そのきっかけは。
「空襲でやられた体育館の焼け跡に、上級生が手づくりの卓球台で卓球をはじめ、卓球部創設を高校側にお願いした。ところが校長は最初反対でしてね。そこで上級生たちが毎朝、校長室前の壁に“創設陳情書”を書いて張り出すんです。学校側はすぐそれをはがす。また張り出す。といったことが一週間もつづいたでしょうか。それを見ていて、まず勇気があるなあ、と感心し、そしてこの上級生たちと一緒に卓球をやろうと決意し、やがて許可された卓球部に入ったんです」
――元気旺盛というか。
「そうなんです。私は終戦直前の昭和20年に旧制の都立十中に進学。いよいよ空襲は激しさを増し、私は戦闘機乗りになって、空襲にくる敵機をやっつけてやろうと……(笑)。中学一年から受験できるのは陸軍幼年学校なので受験、合格したんですが、間もなく終戦になりましてね。あのころの中学生はみんな元気いっぱいでした」
――そうですね。それがまた芸術学部へ進学されたのは……。
「終戦で、価値観は一変してしまうし、私も戦闘機乗りから新聞記者志望に、というわけです。それで26年、西高から都立大へ進学、もちろん卓球はつづけていました。その翌々年でしょうか、全日本軟式選手権で初優勝を果たしたんです。ところが都立大には、指導者も練習相手もいません。そんなところへ、現在日大卓球部の総監督をしておられる八百板弘さんから『うちの大学へ練習に来いよ』と声をかけていただいたんです」
――なるほど。
「当時、大学本部にあった卓球練習場に足しげく通ったものです。そのうち、こんどは『本格的に卓球をやってみないか』と八百板さんにすすめられ、いっそのことと28年に都立大二年から芸術学部二年への編入試験を受けて合格したというわけです」
――芸術学部はどうでした。
「映画が好きで、映画学科に入ったんですが、いやぁ、ノルマがあって、きつかったですね。一番印象に残っているのは、アーチスト(芸術家)になるには、まずアーチザン(職人)になれと教えられたことでした。教職員の方々に仕事に対する姿勢といったものを叩き込まれましたね。都立大とはだいぶ違うなと思ったものです(笑)」
――学業と卓球を見事、両立なさったわけですね。
「最初は苦しかったです。とくにフランス語など塗炭の苦しみでした。江古田で講義をきいて、三崎町で卓球練習。遅刻すると怒鳴られ、しかも卓球台は15人の部員にたった1台でした。ゲームに負けると次のゲームまで1時間半も待つんです。その間に見取りけいこをしたり、図書館に行って勉強したり……。毎晩、終電まで練習して、家に帰るのはたいてい”午前さま”でしたね」
――根性とでもいうのでしょうか。
「それに三歳で父を亡くし、母一人子一人のいわゆる母子家庭で、母が働いて、生計をたてるという暮らし。貧乏でした。朝、家を出るとき50円持って、昼飯は35円のカレーライス、夕食は10円のコッペパン1個に5円のマーガリンをぬって、2、30分ごとにかじって夜中まで持たせ、とにかくハングリーでしたね(笑)」
――……。
『床屋に行く金も無くて、浜中さんによく「おい、散髪に行って来い」って散髪代をいただいたものでした。よく面倒を見てもらい、いまも感謝しています』
――いま保健体育局の浜中一泰局長にですか。そうですか。
「八百板さんにも、国体の合同練習の帰りかなんかに、焼き鳥屋で「好きなだけ喰え」といわれて、111本も……(笑)
――学業はどんなぐあいに。
「いつでしたか、世界選手権大会をすませて帰国した直後、各科目のレポートを千枚以上書いて提出したこともありましたね」
――卒業制作というのがありましょう。
「ええ、“日本の卓球”という映画をつくりました。いや、映画学科でつくったものですが、プロットとシナリオを書かせてもらったわけです。これが1956年の国際スポーツ短編映画コンクールで、金賞をとりましてね。そんなわけで映画学科の学生らしく卒業をすることができました。これも演出論の牛原虚彦(清彦)教授をはじめ教職員の方々や先輩に面倒を見ていただいたおかげです」
――あなたに意欲があったからでしょうね(笑)。
「檜山与八郎先生も忘れられない恩師の一人です。あの先生の壮行の言葉を聞くたびに涙が出ましてね。その檜山先生に連れられて古田重二良先生に挨拶したときのことも忘れられません」
――どんな激励の言葉があったんですか。
「いや、言葉はないんです。私の学生服のボタンが2つ、まだ都立大のものでした。古田先生、目ざとくそれを見て、無言でそのボタンをつつかれました。『君は日大生なんだぞ』と無言で示されたとあとで思いました。ああいうのが、ほんとの教育だな、そんな気がしましたね」
――いま、どんな貿易をなさっているんですか。
「室内装飾品などの輸入販売、それに食品なども多少扱っています。事業もスポーツも取り組む姿勢は同じで、一発屋的では、長つづきしません。最初は車を事務所がわりにして一人ではじめましたが、いまはなんとか20人ほどの社員をかかえるようになりました」
――校友として、最近の本学をご覧になっての感想をひとつ。
「まず、頼もしい母校といった感じですね。内容も充実し、質も向上しています。長男が商学部に在学中で、よくわかるんです」
――ありがとうございます。
「ただ、質が向上しても、ミニ官学みたいになってはダメだと思うんです。日大らしいよさ、例えば、私のようなものが、十分に活躍できたのも、その背景には、いろいろな環境づくりがあったと思います。だからこそ各方面にいろんな有為の人材を輩出できたと思うんです。そうしたものを今後も保っていっていただきたいですね」
――最後に趣味などをお聞かせください。
「趣味ですか……。いや、いまは1983年に東京で開催予定の卓球世界選手権大会の準備で頭の中はいっぱいいっぱいなんです。これには80カ国ぐらいが参加、予算は5億程度はかかりそうです。その資金集めとか、組織づくりをどうするとか。そんなわけで、趣味どころではありません(笑)。もう少し歳をとって、ゆっくりできるようになったら、何か趣味らしいことも……(笑)」
(卓球のことしか、頭の中にはない、といった感じ。とくに3年後の卓球世界選手権東京大会の話になると、大きな目玉がいっそう輝いてキラキラと光った。いつも何かに挑戦してやまない生き方。その東京大会の成功を祈りたい。昭和ヒトケタ生まれといえば、耐乏と忍従のきびしい時代の波の中を生き抜いてきた勇気ある信念を持ったゼネレーションといえる。その中の一人をそこに見た思いがした)
――1980年10月
出典:日本大学広報部『このひとも日大人』
協力:日本大学本部広報部

















