『第2回アジア選手権大会 横浜開催決定を祝う』『朝鮮との交流決定におもう』1973年2月 卓球ジャーナル「発行人から」より

第2回アジア選手権大会 横浜開催決定を祝う

2月7日、日本卓球協会会長永野重雄氏と横浜市長飛鳥田一雄氏とは、東京の日本商工会議所で記者会見し、第2回アジア卓球選手権大会を1974年春に懴浜市で開催することに決定した、と発表した。

読者もすでに御承知のように、第1回大会は1972年9月に北京区で開かれ、31の国と地域の協会が参加した。

このときに開かれた第1回の総会で、日本の代表の城戸副会長、矢尾板理事長は第2回大会の日本開催を引き受けてきた。以来、東京にも近くて人員の動員にも便利であり、自治体の首長が卓球に理解がありアジアの情勢にも理解があることから、横浜市に白羽の矢をたてて交渉をつづけ、ついに2月7日の発表になったわけだ。

この大会の意義は、日中の連帯がアジアに拡がった、ということであろう。第1回大会に31の国と地域の協会が集まったとき、“中国だから集まるのさ”というヤッカミ半分の声も聞かれた。

さて、日本にはどのくらいの国がくるか? 35以上、と城戸、矢尾板の両氏は楽観的である。国の数が多ければ参加者も多い。経費もたいへんだ。

名古屋での第31回世界選手権大会は、1億3000万円の経費がかかったとされているが、同じように計算方法してみると、2億円は軽くかかりそうだ、といわれている。これに対して横浜市は5000万円の予算を計上しているが、他は事業収入なり、寄付金なりで補なわなければならない。

会場には文化体育館が当てられるという。これは2500の座席数だ。

広告料、放送料等々の事業収入をみこんでもおそらく5000万円がせいぜいだから、募金は1億円ぐらいを見込まねばならず、日本卓球協会と横浜市が中心となってつくるであろう組織委員会としては、大変な仕事を引き受けることになろう。

財界はいま、体協の中にある“スポーツ振興資金財団”へ一括して援助金を支出し、一つ一つの種目の募金には原則として応じないそうだ。

この他にも難しい点がある、と指摘してくれる人もいる。日本と国交のないいわゆる“未承認国”の選手の入国のことでだ。国庫補助もわからないぞ、という人もある。しかし、私は飛烏田横浜市長が「スポーツマンの入国ですから問題なんてないでしょう」と述べた楽観論を支持する。

この大会は従来の選手権大会とはちがい、試合前の友好練習が試合と共に一つの柱になっている。予算の具合でどのていどこれができるかは予断できないが、日本の選手達が各国の人達の練習のお手伝いをする光景はきっと卓球のイメージをひき上げることだろう。

そして、今後の国際情勢が発展し、いまは大方が予想しないような多彩な顔ぶれの卓球人が、アジア各地から集まってくることを信じている。

朝鮮との交流決定におもう

日本卓球協会の青年隊が朝鮮を訪問することに基本的な合意がなされた。ナショナルチーム同士の交流は、1971年春の名古屋、1971年秋の2A大会、1972年秋のアジア選手権、1973年春のサラエボ、夏の3A、と、このところ実にひんぱんにおこなわれている。そこで、青年チームの交流、ということになったのであろう。

朝鮮も日本も男子の場合、若返りには深訓な問題をかかえている。女子は朝鮮はハイティーンの後続部隊が多勢いる。おそらく桜の花の咲くころに平壊につく日本のお姉さんチームに堂々の勝負をいどむことになるだろう。

日本の海外交流は盛んになる一方で、ことしはいままでにないほど多くの交流が予想される。「チャンスを大事にしろ」と若い選手にいいたい。何回も何回もチャンスが与えられる、と思うのはまちがいだ。

全国には熱心な若い人達が大勢いる。できるだけ多勢の若い人達にチャンスが与えられ、刺瀲が与えられ、淀んでいた水が、どんどん流れ若あゆが、日本卓球黄金時代の再現へのエネルギー源になることを祈る。同時に若い人達も、「チャンスが与えられたら頑張る」という心境ではいけないのではないか?「チャンスがいつ与えられていいように、頑張る」のでなければならないと思う。

1973年2月

荻村伊智朗

1973-2第2回アジア選手権大会横浜開催決定を祝う

 

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