大会場のマナー
選手は、できるだけ完璧な試合をつくりたい、と思うものだ。観る者ももちろんそうなることを望んでいる。どこの練習場いっても、採光や壁の色などに気をつかい、プレイがしやすいように皆が配慮しているのがよくわかる。
一人一人が細かく気を使っているからこそ、一歩入っただけで身の引きしまる思いのするような、思わず礼をしたくなるような練習場ができるのであろう。
ところが、一歩練習場を出て、大会の会場を皆でつくってゆく段になると、なかなかうまくゆかない。テニスの試合やゴルフの試合では観衆のマナーがきびしい。ゴルフなども神経質な個人競技であるからか、ギャラリーの態度はすぐ選手の競技にひびく。
卓球にも元来はこうしたマナーがあった。
私たちは、先輩たちからきびしく教えられたその一つの例にこういうことがある。
私は高校一年のときに卓球をはじめた。先輩がフォームを教えてくれたが、ラケットは必ず額の位置で止めよ、ということであった。そのため、私たちはほとんど面ダコができた。学校の行き帰りや練習場で、一日に何千回もラケットの端をひたいにぶつけるのだから当然だ。先輩は、自分たちの経験から、帽子を後むきにかぶって帽子のふちでショックをやわらげることを教えてくれたのだが、それでも大きなタコができたのだ。
ある日、富田兄弟のいる名門高千穂高校に練習試合をしにいった。富田兄弟の弟さんは、後に私とともに世界選手権をたたかった仲間だが、高校時代は私よりはるかに上の格の存在だった。自分たちだけの練習のとき、私たちはいつものクセで帽子を後むきにかぶってフォア打ちを始めた。と、富田氏のお兄さんがこられて、「帽子をとれ。ここはよその学校の道場だ。失礼だぞ」と叱られた。全くその通りで、私たちは反省し、その後はハチマキを使うことにした。
八王子で都下の試合があった。一般も高校もいっしょに試合をやっていた。観覧席のない体育館で、壁のそばに荷物をおき立ったり坐ったりで観戦していた。往年、全日本で2位になった阿木(中大0B)選手が試合をしている後を、一人の高校生が通った。
ラリーが終わったとたん、阿木さんは、その高校生を追いかけてゆき、体育館中にひびくような大声で“コラッ”と叫び、頭を軽く一撃された。第一に失礼であり、第二に危険である。
他人のラリー中はその後を動くべきでないし、精神の集中を乱すような行為をすべきでない、というのである。
練習場でやるべきでないことは試合場でもやるべきではない、ということである。
最近、日中対抗があったが、卓球をよく知っているはずの特別席のあたりが、大声の私語や軽々しい動きが目立ち、みぐるしかった。
代表選手の一部のもののべンチでの集中力がよくない、などとの批判も耳にすることもあったが観衆のマナーも決してよいとはいえなかった。
試合を最後まで見て、盛り生げてゆこうという参加意識が不足しているようにみられた。
大阪で行なわれた大学対抗でも、プレイヤーを優先する考え方のうすい行為が目立った。
ベンチに入っている監督でも、ウチワをパタパタひっきりなしに動かしている人がいた。
もっとも、ウチワは動かすものだから手に持てば、つい動かしたくはなるだろう。だが、選手の目に入る位置と高さで、白と赤、あるいは白と緑のウチワをパタパタ動かすのはどうであろうか。
私がやっていた選手だったら、そうした役員に対する尊敬の念は、どう努力しても薄れてしまっただろう。心頭滅却すれば火もまたすずしにと喝破した禅僧があったが、監督が暑さも忘れて試合に没入できなくて強いチームが作れるはずはない。何か手に持っていくほうがよいのならば、メモとエンピツを持ってほしかった。
白や黄色のシャツでフロアを歩き回る人の姿も見えたが、そうした色が競技上の理由から禁止されている以上、競技場のフロアにおり立つ人は気をつけるべきではないだろうか。
ある高校の有名な監督は、ちゃんと色つきのシャツをきてフロアや観覧席で観戦していたが、これが本当だ、と思う。
卓球日本の黄金時代をとり戻すためには、みんながいろいろな方面で努力してゆかなければならない。
1973年7月
荻村伊智朗
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