『雨滴 石を穿つ』1978年5月 卓球ジャーナル「発行人から」-荻村伊智朗

一粒の雨だれは力の弱いものである。

しかし、何年、何十年と石を打ち続ける雨だれは、しまいには石に穴をあけてしまう。一つ一つは小さな力の仕事でも、根気よくやれば、こんな人にこんなことができるのか、というような仕事を成しとげることができる。

 

私は世界タイトルを12個ももらい、日本の卓球選手では最多優勝の記録を残すことができたが、高校時代はもちろん、大学二年生になっても、その将来性に対する評価は定まらなかった。しかし、私の練習量は、他の選手にくらべて圧倒的に多く、卓球を考え抜く時間も圧倒的に多かったから、自然に他の人と差がついていったのである。

私の卒業した東京都立西高校は、いわゆる進学校であったのと、失火が二度ほどあったため、五時半には校門を出なければならず、卓球部員は練習時間の不足に泣いた。

“量より質”という標語が、だれ言うとなしに出来た。というより、そう言わないわけにはいかなかった。

少しは頭がはたらく、と思っている連中の集まりなので、いろいろと工夫したり、精神を集中すれば質の高い練習ができて、ただ量だけやっている人たちに比べても負けはしないはずだ、という考えもあった。

事実はどうだったか。私という同じ人間の例でいえば、同じ一生けんめいやっても、量の少ないときは進歩が少なく、多いときの進歩はとてもはやかったのである。

 

こういうと、なにか「質より量」と言おうとしているように聞こえるかもしれないが、実は、そうではない。どうも量と質は反対しあうものではなさそうだ、と言いたいのだ。「量は質を保証する」ともいえるし、「量の拡大は、ある程度に達すると質の変化をもたらす」ともいえよう。

ある一点にむけて、小さな力でも集中して、たくさん行えば、必ず質に変化がおこる。

雨滴で石に穴があけば、もうそこには石が無く、別の質のものが存在する。水は湿度が加わりつづければ、蒸気というまったく違う質のものになってしまう。

卓球をいっしょうけんめいやり続ける人たちは、まわりからみると“ばか”のように見えるかもしれないが、実はたいへんな人生の真理を体得する修業をしているのだ。一粒の雨滴になったつもりで、毎日の努力を積み重ねていくことの意味を信じよう。

毎日の努力の行くえは一粒の雨滴が石に落ちたように頼りなげに思えるときもあるが、やがて石を穿つ日がくるのを信じて頑張らねばなるまい。

1978年5月

荻村伊智朗

1978.5.雨滴石を穿つ

 

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