『アルセア基金の発足を祝う-ヨーロッパ卓球中興の祖 ハンス・アルセア氏 卓球に殉ず-』1976年11月 卓球ジャーナル「発行人から」より

アルセア基金の発足を祝う-ヨーロッパ卓球中興の祖 ハンス・アルセア氏卓球に殉ず-

スウェーデンのナショナルコーチ、ハンス・アルセア氏(34才)が、1月15日ストックホルム郊外において、飛行機事故で亡くなった。アルセア氏は、ストックホルムで行なわれる予定であった第34回世界選手権大会の準備をする、スウェーデン卓球協会の会議に出席するために、ヨン・シッピン市から飛行機に乗り、ストックホルムに向かう途中、遭難したものである。

アルセア氏は、国際試合の第一線を退いてから3年にわたって、西ドイツ卓球協会の招きに応じ、西ドイツナショナルチームをコーチし、二流水準から一流の下と評価されるまでに西ドイツチームをひき上げ、若がえりを果たした。

77年2月に、アルセア氏の育てた西独チームは、ウェールズオープンの団体戦でハンガリーを破って決勝に進出した。昨年から、故国スウェーデンに帰ってナショナルコーチに就任していた。

1976年10月には、上海国際大会の帰途、日本を訪問したスウェーデンチームの監督としても4度目の来日をしたので、日本の卓球ファンも記憶に残っていることと思う。

ヨーロッパ卓球中興の祖

彼の生涯は、幼少の頃から卓球によって形成され、そして、卓球に殉じ、遺志を卓球基金として続かせることになったといえよう。

私は彼を「ヨーロッパ卓球中興の祖」と考えている。ひとくちで言えば、彼なくしては、ヨーロッパの今日の攻撃卓球はかくも花開らかなかったであろうし、また、花開いたとしても、これほど早く日本や中国に追いつくことはなかったであろう。

それは、私も何回か述べたことだが、スウェーデン卓球協会が、国際卓球連盟創始国メンバーの中で老誧のメンツをかなぐり捨てて、アジアにコーチを求めた時の強化選手であったことから始まる。

1959年の11月、雪深いスウェーデンを私はコーチとして招かれて訪れた。十数人のナショナルチーム選手を相手に合宿を始めたのだが、その中で、私の希望した十代の選手は、彼ひとりであった。

そして、彼だけが、私の唱えた卓球理論に共鳴し、身をもって実践した。そして、わずか3か月の後に、この17才の少年がスウェーデン選手権に優勝したことによって、スウェーデンの若い世代が多いに刺激を受け、後にシェル・ヨハンソン、カール・ヨハン・バーナド、ステラン・べンクソンなどの集が、陸続としてこれに続き、やがて、スウェーデン以上の老舗を誇るハンガリー、ユーゴスラビアなどに、日本式の攻撃卓球の花を開かせることになったのである。その意味で、私は彼をヨーロッパ卓球中興の祖と考えている。

小さい時から人気者

彼は、スウェーデンの中部の商業都市、ロースの服飾会社デザイナーの長男として生まれた。兄弟は、妹ひとり。彼亡きあとにはお母さんと妹、そしてグニラー夫人と2人の子供を残した。彼は、9才の頃から卓球を始め卓球とフットボールのジュニアリーグの名選手として人気を博した。

1957年、ストックホルムで世界選手権大会が開かれたとき、スウェーデン卓球協会は、参加各国チームにアタッシュをつけた。いわゆる連絡係の少年である。私は、覚えていなかったのだが、1959年にコーチに行ったときに、この時「日本チームについたアタッシュは私なのです」と言われた。彼に言わせれば、その頃から、日本チームに大変なあこがれの気持ちをいだいていたというわけ。彼の日本びいきは、この頃から始まったといえよう。

素質というのは熱心さ

1959年に、私がスウェーデン卓球協会に招かれて、初めてコーチとして4か月スウェーデンに滞在した。

この頃、スウェーデンの選手たちは、1956年東京大会で、津村選手を破ったメディストロム、1959年の世界選手権大会ベスト8で、私から1ゲームを奪い、4ゲーム目の接戦を演じたトニーラルソンなど、かなりの水準の選手がひしめいていたので、彼ら、私と同世代の選手から見れば、私と数多く練習しさえすれば、なんとかなるだろうという考えであったようだ。

事実、彼らは私をコーチとしてよりは、友人としてあつかい(これは私も歓迎したが)スパーニングパートナーとして考え、私を利用しようとした。私は、それでもかまわないと思ったが、合宿を始めてみると、一日の始めのウォーミングアップの体操を始めて、ものの5分もしないうちに、ランキングナンバーズ2の選手がさっさと荷物をまとめ「荻村君、私はここに卓球の選手としての訓練をするために来たのであって、体操の選手になるんじゃないんだよ。こういう合宿は、まっぴらごめんだ、この次トーナメントで逢おう、君をのしてやるぜ」と言って帰っていくなど、コーチとしての出発は、まさに前途多難であった。

また、ハンガリーから移住して、スウェーデンの大新聞で健筆をふるっていたスポーツジャーナリストのイミ氏は「日本の荻村が、ほんとうに奥の奥までを教えるはずがない。口では親善を唱えても、一番大切な所は教えないだろう。なぜならば肝心の所を教えれば、やがてヨーロッパ勢が日本に勝つことになる、それは日本に不利だからである。だから、荻村にあまり期待するのはまちがいである。」などと書きたてた。

幸い私は、スウェーデン語がよくわからなかったので、私の写真がでていれば「ああ、歓迎してくれているんだな」と思っただけで、しばらくしてからそれを知ったのであるが、とにかく、私をとりまく環境は、700円の日当と合わせて、決してあまいものではなかった。

私のハードトレーニングに、結局ついてこれたのは、アルセア氏ひとりということになった。ある時などは、私は彼を相手にひとりで、1対1で8時間もの練習を続けた。

ときたま、大会などでシド、リーチ、アンドレアデスなどの往年の名選手たちに逢うと、「荻村君、アルセアに期待するなんて、希望が大きすぎるよ、彼のカットは、ネットと同じだけの高さで、ネットの上を飛んでくるじゃないか」などとからかわれた。

しかし、私は「本当にアルセアに素質があると思うか」という問いに対して、「あると思う、素質というのは熱心さだ」と答えた。そして、やがて3カ月後、彼はスウェーデンの選手権に優勝した。

次に、私がスウェーデンを2年後に訪れた時、私の立場は完全にコーチとしてあつかわれるようになり、ヨハンソン、バーナードなどの若手選手が、アルセアに続けとばかり、朝飯前40分のランニングをはじめとする猛トレーニングについてきた。この頃でもまだ、イギリスなどではスウェーデン選手がウォーミングアップの体操をしたり、いろいろなトレーニングを遠征地で行なうと、腹をかかえて笑ったものだ。

しかし、アルセアは、ヨーロッパ選手権に連勝し、スウェーデンがヨーロッパ選手権に5連勝し、そして、アルセアヨハンソンが1967年にダブルスで優勝し、69年も連勝し、さらに、その後に出てきた第3世代のステラン・ベンクソンが71年に名古屋で優勝する頃には、ヨーロッパの卓球は完全に攻撃中心に切り替ってきたのである。

この間、59年から約10年間、スウェーデンはヨーロッパのモルモットとして、東欧圏からは横目でにらまれるようなかたちであったが、いまや、日本式の腕をいっぱいに伸ばして、腰を使ったドライブやスマッシュの打法は、ヨーロッパの打法とさえ考えられるほどに普及してしまった。アルセアが、文字どおりスウェーデンのモルモットとして練習を始めた59年に源があるのである。

ヨーロッパは50年代、すぐれた選手をたくさんもっていたがそれが、60年代に入って、まったく自信を失い、一種の暗黒時代を迎えた。この暗黒時代に、一条の光明をもたらしたのがアルセアである。

ヨーロッパの前に立ちはだかる壁は、いかにも厚いように見え、しかし、千丈の堤も蟻の一穴からという。それを崩してみせたのが、アルセアである。アルセアは、その後、ドイツをはじめとする各国のコーチを引き受け、日本式の練習法を広めていった。

アルセア基金

2月3日、11時、アルセア氏の葬儀は、数百名の卓球愛好者が、スウェーデン中は申すに及ばず、世界各国から集まって、盛大にとり行なわれた。しかし、花束の数はきわめて少なかった。

グニラー夫人と、スウェーデン卓球協会はアルセア氏の卓球を愛好する志を長く記念するために「アルセア記念基金」をつくり、アルセアの個人財産の一部を寄付し、友人、知人から贈られる予定であった弔電や花束の代金を、すべてこの基金に寄付してくれるように頼んだのである。

アルセア氏の、卓球を愛する魂は、かくして、彼の肉体生命を越えて生き続けることになった。“後生戦術技術をみる畏るべし”とは私の好むことばであるが、私の育てた選手の中から、このようにりっぱな志を残す人が出たことを、私は誇りに思う。

願わくば、各国の若い選手が、アルセアの志を、自分の志とし、アルセアの求めたものを求めて欲しいものと思う。この基金からあがるお金は、若い卓球選手の活動のために、末長く生かされることであろう。日本からも、すでに20名のアルセアを知る人たちが自発的に応募している。

1976年11月

荻村伊智朗

1976.11.アルセア基金の発足を祝う1①

1976.11.アルセア基金の発足を祝う②

 

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