技も最高の3A
3A大会の準決勝と決勝は世界選手権と同水準だった。これを見た人は得をした。ピョンヤンやノビサドへ行かなくても、だいたいこのようなレベルで今の卓球試合は行われる、ということがわかったからだ。
特に小野と謝の準決勝は、小野が劣勢を粘って持ちこたえた。小野にとっては間の長い試合には経験があり、謝にとっては、おそらく今までの生涯で一番間の長い試合ではなかったろうか。
間が長くなればラリー型に有利、即決型には不利だと言える。世界選手権のいくつかの種目で優勝した富田芳雄という天才的な選手は、頭のひらめきが抜群に早く、絶対に間をとらなかった。謝の場合も、自分がサービスを持ったならば、水の流れるようにさっさとやって小野の間を短くさせる方向へ引っ張るべきだったろうが、そういかなかったのは謝の未熟か、小野の貫禄か。
団体戦の謝の完勝は、スムーズな時間経過の中で起こったのにくらべると、個人戦での長い間をこなすには謝にとってもう少しの経験が必要といえよう。
速攻タイプでは、河野が何回も長谷川の長い間にやられているうちに円熟し、後年の全盛期には短い間も長い間もこなせるようになったことが思いおこさせられる。
卓球には経験が必要、ということばをヨーロッパや中国の人はよく言うが、この辺をさして言うならば然り。
河野は次第に間を“止める”ことができるようになっていった。数日前、李富栄中国団長(世界選手権優勝数回・男子単3回連続2位)と話をしていたら、70年前後から80年までの日本選手の中では河野の水準を特にほめていたが、その中にはメンタルなものも含まれていたと私は感じた。
3A大会の上位に進出した男子4選手のうち謝を除く3選手は香港のワールドカップに続いての試合であり、大変疲れていた。李や高島は4キロ以上も体重がふだんより減っていた。ワールドカップも世界選手権並みの激突だったので、選手たちの神経にはかなりこたえた、と思われる。にもかかわらず優勝した31歳のベテラン李振恃はピョンヤンよりもキリッとしてみえた。
中国選手のガッツポーズなど、70年以後は見たことがなかった日本の観衆にとって、初物のようなさわやかな味があったのではないか。
李の前腕の運動は謝にくらべて振りきれていることが多かった。しかし、謝も末恐ろしい選手である。日本の和田が香港のフイ・ソー・フンに敗れたのは意外だった。目標は中国だけ、それも曹燕華、斉宝香だけ、と思っていた足もとをすくわれた感じがした。卓球は底が深い恐ろしい競技でもある。
1980年10月
荻村伊智朗
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