『ハンガリーの躍進とその指導者Z・ベルチック』1971年1月「卓球ジャーナル」発行人からより

べルチックで急成長のハンガリー

スカンジナビア・オープン選手権大会に参加したハンガリーチームの監督は、ベルチック氏でした。1960年の春にシド、ハランゴゾ、ポグリンチ氏らと共に来日したベルチック氏の試合をみたかたも読者の中にはおられることと思います。

ベルチック監督のひきいるハンガリーチームが、この大会で中国を3:2で降しました。

世界選手権形式ではないにせよ、1959年以来はじめて欧州チームが中国チームを破ったわけです。奇しくしも1959年に中国をドルトムント(西独)で破ったのは、シド、ベルチック氏らのハンガリーチームでした。

文革後はじめて西側世界に登場した中国チームの前陣ショート守備を、日本選手を上廻るパワードライプで打ち抜いた18才のクランパと20才のヨンニヤ選手の急激な成長の蔭には、ベルチック監督の苦心が秘められているようです。

ベルチック氏が選手として来日したときは、成績はあまりパッとしませんでした。ルーブドライプなる彼の水平打法とは全くかみ合わない怪物が彼を待ち受けていたからです。初戦で中西選手(当時日大)に21-5ぐらいのスコアで敗れたことは、彼の卓球に壊減的な打撃を与えました。

彼の水平打法とは、裏ソフト貼りのラケットの面を水平に近いほど上向きに構え、低い打球点でまっすぐ前に猛烈な速さで振り、振りが終った瞬間に同じぐらいの速さでラケットを元の位置へ戻す打ちかたです。ラケットを振る方向が変っているだけでなく、振りと戻りとを一動作で済ますやりかたにも特徴があり、一時この打法は欧州で流行しました。

水平に構えて、水平に振ることは、よほど速い振りでないとポールが浮いてしまいます。一日に8時間以上の練習量で彼は猛烈に速い振りを習得し、すばらしい切れ味のカットで約2年間というもの欧州で無敗を続けました。

ツッツキでは、相手のカットがベルチックのカットに切りまけて、ドライブがかかって返っていってしまうのでした。

無敗の内容も、1セットも落さない国際大会も数多く、決勝戦が3セット共ダブルスコアといった試合も多かったようです。

彼がただの練習マシーンでなかったことはよく知られていますが、とにかく練習が好きでした。私も57年にはプタベストでの対抗戦が終ってから、彼のたっての頼みでレセプションを程塚監督の許しを得て欠席し深更まで練習したことがあります。その彼が、シド氏のあとを引きついでハンガリーのヘッドコーチに就任したのが昨年からですが、いかなる理由からか、ハンガリーチームの戦績は急上昇しはじめました。

パワーと反応の速さ

中国との準決勝後、私達は次のような意見交換をしました。ベルチック氏は、まず、ハンガリーチームに関しての私の意見をたずねました。私は、パワーがある。ゲームの組み立てが粗雑だ。彼は、「わかってる。わかっている。」といいましたが、話し合ってみると、私の指摘する粗雑さと彼のいうそれとには違いがありました。

私のいうのは、戦術面と戦術的技術の習得面についてでしたが、彼のいうのは、精神集中が続かずムラがあること、でした。

彼は、もっぱらこの原因をクランパの脈拍不全やその他の生理的、機能的な面に結びつけて説明していました。ラリーの間の脈拍正常化の問題(私も強対時代に長谷川君達に指導しましたが)とか、彼の関心の方向がわかったような気がしました。いずれにせよ、いまのハンガリーチームが中国に勝ったからといって大した強さではないことには意見が一致しましたが、個人戦に入ると、クランパはシュルペック(ユーゴ)に、ヨンニアはベンクソン(スウェーデン)にそれぞれ長所を封じられて敗れ去りました。

「ところで、動作を速くするにはどうしたらよいと思うか」とベルチック氏がまたある日、いいました。動作そのものの速さよりも、反応の速さによる動作開始の速さに関心の焦点があるようでした。2年間もスポーツコーチの各種学校に通ったそうです。10才をすぎた者の反応時間を早めることは不可能だという説はわかったが、なんとか方法はないだろうかというわけです。

①無負荷状態で動作のスピード感をつかませ

②重負荷状態でそのスビード感の再現に努力させることによって

③適正負荷状態でのスビードを増加する試みはどうか、と問いましたら②からあとの部分は十分にやっているつもりだ、といっていました。

また、反応時間の問題については、私の指摘に答えて2種類の“リマクション・マシーン”をつかってトレーニングしている、といっていました。

数年後にハンガリー時代がくるか

台上のボールに弱く、前後動に弱く、気分にムラがある、などの短所が克服できるかどうか、などは今のクランパとヨンニヤの問題ですが、ベルチック氏は更に次の世代に期待しているようです。つまり、10才前のすばらしい素材を発堀し、それに十分な訓練をほどこして、超一流のチームをつくる、という構想でしよう。

全ハンガリーのヘッドコーチとして長期計画を一手に推しすすめるためには、その任に一定の長い期間とどまることが必要ですが、スカンジナビア大会での好成績がどう作用するでしようか。色スガネの奥の青い眼はのぞき得ませんでしたが、双の頬に会心の笑みを浮かべた数日間であったようです。

1971年1月

荻村伊智朗

 

ハンガリー躍進の1971-1

 

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