『「大器晩成」ということ』1979年3月 卓球ジャーナル「発行人から」より-荻村伊智朗

空手の大山倍達氏の若い頃、松濤流のある師がその衒気(げんき)をいましめて“大器晩成”との書をおくった。私もこの言葉が好きだ。大山氏はよくその意を解されて、長年にわたり日夜研鑽を積んでついに、大山空手を開いた。

卓球の河野君も、私が初めてみた高校2年のときから数えれば、十数年の歳月を経てようやく世界のトップクラスに安定する力を会得した。彼も晩成型といえなくもない。

 

大器という言葉と、晩成という言葉に私は二つの“もう一つの意味”をみるような気がする。それは私自身のことを考えてみてもそうである。

私を初めてみる人は、だれも私を大器とは思わない。しかし世界選手権の金メダルを12個も獲得すれば、だれもが大器という。というよりも、いわざるを得ない。

しかし、私は初めから大器だったのだろうか?ほんとうは、みんながみたように、最初は小器だったかもしれない。研鑽によって、自分の欠点をみ、自分を鍛えあげることによって小器がだんだんより大きな器に成育していったかもしれないのだ。

生まれつきの大きな器をもっている人は……という意味での大器晩成もあろうが、私には“器”は自分次第で変るもの、という気がするのだ。いたずらに生まれつきの才にたのんだり、がっかりしたりする必要はない。

 

つぎに、晩成について。根気よく繰り返し、たくさんやれば必ず立派になる、強くなる、という誤解はないだろうか?やればやるほど器をある大きさに固定し、もっと大きな完成を制限するやりかたも多くある、ということを読者に率直に申し上げたほうがよい。

コツコツとやり通すことによって晩成するためには正しい方法を採用していることが前提である。自らの卓球を見いだし、正確な方向の努力を積み重ねてこそはじめて青の洞門はうがたれるのだ。

 

卓球の場合、練習量の多い人ほど練習量に対する甘えと錯覚をし警戒せねばならぬ。これだけやっているのだから……という甘えをなくすことだ。

たとえば、練習量の多い人ほど調子のでるのがおそい、という傾向があるがこれは心のどこかに甘えがあるとしらなければならない。練習量の大部分がウォーミングアップや単なる繰り返しにならないような工夫と方向づけをしなければならない。

このようにやっているのだから、という方向性がプラスされてはじめて大器晩成の道を進む。

1979年3月

荻村伊智朗

1979.3.『大器晩成』ということ

 

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